2019年1月8日記事から【スカルベック家の納屋とショパン】をお届けします

ショパンが生まれたことで知られるジェラゾワ・ヴォラはウチャタ川沿いのソハチェフ郊外にある小さな村だ。
村の始まりまりは1579年、ジェラゾワ・ヴォラのウイナ森林の納税者がミコワジとピョートル・ジェラゾの兄弟であった。
19世紀、ジェラゾワ・ヴォラ村はスカルベックが所有していた。
(1802年、スカルベックの家族で、トルンで最も裕福な商人で銀行家のルートヴィカ・フェンガー婦人がジェラゾワ・ヴォラ村を買った。
スカルベック家は、Abdankの紋章(KacperとLudwik)とひとつの本邸宅と別棟の納屋のある別荘に住んでいた。(現在の "別棟"は東の建物)
本邸宅は18世紀後半(西暦1701年から西暦1800年までの100年間)
に建てられたもので、スカルベックがトルンのお城から離れた隠れ家としてポーランドの貴族の館を模して別荘として建てたものであった。
スカルベック家の別棟の借家に使用人としてショパン一家は住んでいた。
スカルベック家の所有する本邸宅のちょうど左側にある別棟の脱穀小屋で1810年3月1日にフレデリック・ショパンが生まれた。
その建物は脱穀小屋であったため床板もない土間でショパンは生まれたのだった。
ショパン一家は、1810年10月1日にワルシャワに移住するまで、住居に不向きな小屋の借家住まいで住宅条件は非常に悪かった。
第一次世界大戦中に本邸宅の建物が焼失し1812年に戦線が燃え尽きた。
1812年にスカルベックの本邸宅が全焼したためスカルベックは本邸宅に住めなくなった。
スカルベック家はその再建のための十分な財源がなかったた。そのため本邸宅の再建はできなかった。
1818年、フレデリック・スカルベックは娘のルドヴィカ・スカルベックに生涯、残った
別棟の脱穀用の納屋を使用する権利を与え、息子であるフレデリック・スカルベックにはジェラゾワ・ウォラ村を転売した。
1825年に、末っ子のミカウスカルベックは、フレデリック・スカルベックの兄弟から別棟を買い人生の終わりまで住んでいた。財政問題の増加は、ミカウスカルベックの自殺の一因となり、1834年に、彼は馬の毛の束縛の邸宅に身を預けました。
その後も、残った別棟は、様々な所有者に渡った。
1834年ジェラゾワ・ヴォラ村をスカルベック家はそれをSzubertomという人物に売却。
次に1836年から1843年の土地の所有者は、住宅ローンを返済のために、すべての家財道具などすべて売却した。元ポーランド人兵士のJózefWiśniewskiという人物だった。
次のオーナーはPeszlowieで、1859年から1879年にかけてAdamTowiańskiになった。
1879年からは、邸宅はアレクサンダー・パウロフスキが所有した。
1894年にロシアの作曲家Mili Balakirewの主導でFronderław Chochowski(Jan Woydygaがデザインした銅像)のデザインに従って、ショパン の銅像が邸宅の庭で発表された。
また、納屋の外観を高貴に見せかけるため、その前部に三角の庇を取り付け、存在してなかった円柱形の柱を2本付け加え、玄関ポーチとして見栄えをよくした。それによって典型的なポーランドの邸宅の外観に近づけ、ショパンのイメージを作ったのであった。
1918年から土地を所有していたのは、Rocha Szymaniakであった。
1928年ワルシャワ・ショパン協会は別棟と建物の周りの土地の3ヘクタールを購入した。
第二次世界大戦中はドイツの兵士たちは邸宅に駐留し、終戦時にはそこに病院があた。
第二次世界大戦の後、フレデリック・ショパンの生家として記念博物館が造られた。
スカルベックが所有していた当時の建造物の内部と外観に関するデータは完全に欠如している。そのため、ショパン家が住んでいた借家はイメージで造った幻想の建物であり、第二次世界大戦後に室内に配置されていたインテリアも、19世紀初頭からの粗末な外観から考慮すると無関係である。
スカルベックの本宅は再建されず、納屋が多くの人手に渡っては、何度も再建されては
残り、現在ショパンの生家と呼ばれている運命に複雑な過去を感じる。

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです