F.Chopin、アリが描くショパンとフレデリックの少年の日々からの夢は何処へ

ワルシャワのルドヴィカへ日記のように書簡を書き始めてから二週間が過ぎた。フレデリックはまだまだ話したいことが積もっていた。
「今日は4月16日、あなたへのこの書簡を書き始めて4度目です。
この後、私の肖像画のためのポーズをとるために、アリ・シェフェールの所へ行きます。
それまでにこの書簡を書き終えることが出来るかはわかりません。
それから、帰ってから私は5つのレッスンが待ち受けています。
先程は展示会について言及しましたので、
次は音楽のことを話しましょうか。」
フレデリックは姉と対話するかのように、
自分の日々の様子をつぶさに説明する。話題は作曲するかのように話しは展開していくのだった。
「さて、デビッドのクリストファー・コロンブスの言葉による彼の交響曲【沙漠】は成功しています。
既に3回も上演されたことがありますが、まだ私は聴いていません。
わざわざ聴きに行きたいとは思いません。
気の利いたことを言うのが好きな若者の一人の聴衆はI、[アンコール!] の掛け声の後に[3回目!]」、「地球」「ランド・ホー! (陸地が見えたぞ!)」と叫びました。
第4楽章のインドの歌はとても魅力的だと思われます。」
フレデリックが音楽の話しを語れる相手はルドヴィカだけだ。いつものようにパリの最新ニュースをルドヴィカに伝えてながらも、一番の音楽の理解者ルドヴィカに、まだ観ていないし見たくもないのだけれど、と前置きしながらも、詳しく「砂漠」のアンコールの様子を伝えた。
フレデリックの少年の日々から温めて来たコロンブスのオペラの夢は何処へ行ったのか…。フレデリックはお金に困っていたとしても自分の夢を売ったりはしないはずだ。
フレデリックの少年の頃からの才能の一番の理解者ルドヴィカだけは真相を知っていた。
フェリシアン(=セザール)・ダヴィッド
( 1810年4月13日 フランス帝国カドネ- 1876年8月29日パリ近郊のイブリーヌ県ルペック現在サンジェルマンアンレー)
フランスの作曲家
「砂漠」は、フェリシアン・ダヴィッドが1884年に作曲した交響的オード(頌歌)で、
テノール独唱、男声合唱、管弦楽の3部構成から成る。クリストファー・コロンブス(フランス語版)の言葉を元に作曲され交響詩的な性格を持つ。
フェリシアン・ダヴィッドがエジプトと聖地を旅した後に書いた作品とされている。
「砂漠」は1844年12月8日、パリ音楽院で初演されました。テオフィル・ティルマンによって指揮され、次にパリのイタリア座劇場でベルリオーズの指揮で上演されました。
 ダヴィッドは、オーケストラとホールの支払いに1,200フランを支払う必要がありました。デビッドの友人や同僚、チャールズ・デュヴェリエ(メルヴィーユの異母兄弟)とバルテルミー・プロスパー・エンファンティンダビデが出資しました。この契約は、出版社にダヴィッドの作品に対する権利を1,200フランで永久に与えました。このことに出資者は異議申し立てをいました。代表作の「砂漠」の成功は、その後のフランス人作曲家に東洋的作風の影響を与えました。
その他、デビッドの作品には、オペラ「ラ・ペルル・デュ・ブレシル」「ララ・ルーク」などがある。

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アリ・シェフェール
(1795年2月10日 - 1858年6月15日)
オランダ、ドルトレヒト出身のフランスの画家。

アリ・シェフェールは、画家で彫刻家のジャン・バプティスト・シェファー(1765–1809)と彼の妻はオランダの画家兼肖像画のミニチュアリストのコルネリア・ラム(1769年4月23日– 1839年7月4日)の息子でした。彼の兄弟のヘンリー・シェフェールも画家でした。
アリ・シェフェールシェファーは1797年に家族と共にオランダのハーグに来ました。
1808年から1810年まではアムステルダムに住みました。
アリの父は貧しい画家でした。
1809年、アリが10歳の時に父親が亡くなり、母親はアリをパリに連れて行き、ピエール=ナルシス・ゲラン(1774年3月13日フランス、パリ‐1833年7月6日ローマ)の工房にアリを置いていきました。
ピエール・ゲランの弟子には、ギョーム・ボディニエ (1795-1872)、オーギュスタン・ブルデ(fr) (1798-1870)、レオン・コニエ (1794-1880)、アレクサンドル=マリー・コラン (1798-1875)、ウジェーヌ・ドラクロワ (1798-1863)、フランソワ=グザヴィエ・デュプレ (1803-1871)、テオドール・ジェリコー (1791-1824)、ルイ・ピエール・アンリケル・デュポン(1797-1892)、ポール・ユエ (1803-1869)、ビクトール・オルセル(1795-1850)、アンリ・シェフェール (1798-1862)
がいました。
その後、アリ・シェフェールがゲランの工房を離れた頃、パリではウジェーヌ・ドラクロワ、グザヴィエ・シガロン、テオドール・ジェリコーなどのロマン主義が流行していました。しかし、アリ・シェフェールは「冷たい古典主義」と呼ばれる独自のスタイルを確立し発展させました。
彼はダンテ、ゲーテ、バイロン卿の作品に基づいた絵画や宗教的なテーマを題材に描きました。「糸車のマルガレート」「疑惑に苛まれるファウスト」「サバトのマルガレーテ」「教会を去るマルガレーテ」「庭園の散歩」「井戸辺のマルガレーテ」などです。
彼はその他、作曲家のフランツ・リスト、フレデリック・ショパン、オペラ歌手ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド、や、パリ社交会で有名なデルフィーナ・ポトツカなどの肖像画がを描きました。
シェファーはルイ・フィリップ1世(在位
1830年8月9日 – 1848年)の子供たちの教師として1848年まで宮廷に仕えました。
 アリ・シェフェールの弟子には、アメリカ・ニューヨーク港の入り口に位置する記念碑的な《自由の女神像》を製作した彫刻家のフレデリック・オーギュスト・バルトルディ(1834年フランス・コルマール-1904年10月4日パリ)が有名です。
パリのセーヌ川に浮かぶ《自由の女神像》はその返礼としてパリに住むアメリカ人彫刻家がレプリカを製作し建てたことで有名になりました。
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《アリ・シェフェールによるフレデリック・ショパンの肖像画》
1847年
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《デルフィーナ・ポトツカの肖像画》
アリ・シェフェールはポトツカの肖像画を描いたがポトツカはお金を払えなかった。
しかし、これはシェフェールが友情の証として、ポトツカからの支払いの申し出を断ったという美談になっている。

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