F.Chopin、フレデリックがルドヴィカへ伝えたいパリ情勢、そして、サンドの問題作《ルクレチア・フロリアーニ》

1849年頃ジョルジュ・サンド (トマ・クチュールのスケッチ画より)
1849年フレデリック・フランソワ・ショパン (写真から)
フレデリックはルドヴィカへパリでは何が流行してるか最新ニュースを伝えた。
この頃、パリでは大衆娯楽の喜劇が流行っていた。
ショパンも弟子のアルカンと一緒にフォーブル・サンジェルマンへ馬車を走らせ見に行った。   ショパンが観劇に行った頃は、
フォーブル・サンジェルマン地区は、1830年から1848年までの7月王政時代で、フォーブール地区は政治的に疎外されていたため多くの高貴な家族はフォーブールの貴族の城や貴族の邸宅から出ていくことを余儀なくされるようになって来ていた。
貴族ではないブルジョワジーいわゆる中産階級が台頭してきていたため、ショパンとサンドもその波に逆らうことは出来なかった。
ショパンとサンドにとっては、時代の流れは売れない作曲家と売れない作家になりつつあった。舞台芸術の世界はもはやブルジョワジーがお客であり、いかに笑わせるかの喜劇が流行していた。
パリでは目まぐるしく流行が変化し、サンドも気の休まる暇がなかった。
ルドヴィカに「パリにいる間は、ちっとも心の平安がありませんでした。」とサンドの心境もショパンは伝えた。
ショパンの弟子の質も様変わりつつあり中産階級の成金の御婦人がお金で買った貴族の称号を名乗り、ショパンを訪ねて来たことがあった。
「さまざまな7人の弟子たちにレッスンを
するのですが、そのうちの何人かは辞めて行くのです」
ショパンはルドヴィカにパリの今を生きる現実を話した。
ショパンが観劇したのはフェリックス・オーギュスト・デュベール作の1847年「女性が望むものとは」(「女性が望んでいること、神が望んでいること」ことわざの省略)2幕からなる喜劇(4月14日初演)でした。フレデリックは産業革命で汽車が開通したことや通俗的内容でお客のほとんどは笑い転げたことをルドヴィカに伝えたが、フレデリック自身は笑いはしなかった。
そして、
フレデリックはサンドの近況をルドヴィカに詳しく説明しなくてはならなかった。
フレデリックは姉ルドヴィカがノアンに来た時やルドヴィカはワルシャワから最愛の弟フレデリックのためにサンドへたくさんのお土産やお金を渡していた経緯があった。
サンドはルドヴィカをいつも称賛し気に入っていた。

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(画像の下へ文章は続く)
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1840年頃
フェリックス・オーギュスト・デュベール(1795年1月12日パリ– 1876年10月19日パリ)
19世紀フランスの劇作家兼ヴォードヴィル家(舞台ショービジネス)

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(文章の続き)
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フレデリックはルドヴィカにノアンの農家の様子を伝えた。「収穫は幸いなことに、それは大した被害もなく、損害を与えることはありませんでしたが、ご存じのとおりトウモロコシは例外です。」
サンドはノアン村の農民のための慈善事業をしていた。そのため、ソランジュの婚約破断だけがパリから早く引き上げる理由でないとサンドはフレデリックに言い訳したのだ。
お金に余裕がないはずのサンドだが村では見栄を張らなくてはならなかった。
サンドは作家としての活動も一年前の「魔の沼」で負債を抱えてから借金の返済が出来ていなかったはずだ。
この時期、サンドは売れる小説を書かねばならなかった。
ルドヴィカへフレデリックは話した。
「単行本で登場する彼女の最新作は、
※《ルクレチア・フロリアーニ》です」…
そして、、
「この 4 か月間は彼女のもう一つの新しい小説は、
※(仮の題名)(ちびっ子)のタイトルが登場しました。
ラ・プレッセ社から出版されました。
舞台はシチリア島に置かれています。素敵な自然描写がたくさんあります…」
フレデリックは《ルクレチア・フロリアーニ》のことはさらりと流す。
そして、ルドヴィカに
「彼女の他の本には、ルドヴィカはあまり熱中しなかったですが、それらに比べれば、ルドヴィカは《ルクレチア・フロリアーニ》よりも(仮の題名)(ちびっ子)のほうを好むことは間違えありません。」
フレデリックはサンドの小説はルドヴィカにとってつまらないものだったが(仮の題名)(ちびっ子)は《ルクレチア・フロリアーニ》よりは、ましであろうと言ったのだ。
「(ちびっ子)とは、シチリアの盗賊の 1 人に付けられたニックネームで、彼の低身長が理由です。男性と女性の細かいキャラクタースケッチもあり、たくさんの自然の描写と詩があります。
私はそれを(ちびっ子)読んで楽しみました。サンド夫人は今、また何かを書き始めています-」
サンドの小説についてルドヴィカに語ったフレデリックだった。

  
※(ちびっ子)はこの当時の仮名、現在は、
《孤児フランソワ》として出版されている。
これは、フランソワとは、まるでフレデリック・フランソワ・ショパンのことであろうか。孤児フランソワを育てた女が旦那が亡くなった後、孤児フランソワと結婚する作り話だが、ショパンとサンドの関係が重なるところがある。サンドから見たショパンは、
妄想の世界でパリで孤児だったショパンを拾って育てたのは自分だとでも言いたかったのであろうか。
※《ルクレチア・フロリアーニ》はショパンとサンドの関係をサンド側から見て書いた暴露本の問題作として有名。
ショパンはこの1847年の時は、この暴露本について特に何もルドヴィカに語っていないが、(ちびっこ)と比べて話しているため、
《ルクレチア・フロリアーニ》もショパンは読んだことになる。
ショパンはフランス語が直ぐには読めなかったので内容がわからなかったのではないか、などの仮説があるが、ショパンの父親ニコラスはフランス語が堪能でフランス語の先生でした。フレデリック・ショパンは幼少期から友人と父親ニコラスからフランス語の教育を受けていた。それらを踏まえ、また、ショパンの気質から読み解くと、
ショパンが《ルクレチア・フロリアーニ》の内容がわからなかったとは考えにくい。
ショパンは驚かなかったのは、ルドヴィカに話したようにサンドとショパンの関係は利害関係でしかなかったからだ。
   

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