F.Chopin、ようやく『チェロソナタ』の出版にこぎつけるショパン、その頃サンドは…そして、クレサンジュの生い立ち

ショパンは、サンド一家との10年間はソランジュとサンド夫人の仲裁役が苦痛だったことを姉ルドヴィカに明かし、ノアンの館へ二度と行かないことをヴィル=ダヴレーのサンマルク教会で心に誓った。
姉ルドヴィカなら自分を理解してくれることを信じるフレデリックは、ようやく作曲の仕事の近況を話し始めた。
「私の音楽に関しては、ノワコフスキが聴いた私の《チェロソナタ》はすぐに出版されますし、私の新しいマズルカ[作品63]もそうです。」
フランショームの意向に沿うように忍耐強く改善を重ねて来たショパン作曲の《チェロソナタ》は、ノワコウスキがパリを発つ前に、お披露目演奏会に来て聴いてくれていたのだ。ノワコウスキがポーランドに帰り、姉ルドヴィカにどう伝えたかを知りたいフレデリックだった。
「毎日のように私を訪ねてくるフランショームが、ルドヴィカによろしく伝えてほしいと言っています。
昨日会った私の親友チャールズ・ガバードもあなたに敬意を払っています。
私は昨日もシェファーのために肖像画のポーズを取りに行きました。.....私の肖像画は完成に近づいています。
ウィンター・ハルターも私の旧友プラナ・ド・ラ・フェイのために小さな鉛筆画を描きました。彼のことは以前あなたに書きました。とても良い似顔絵です。
ヴィンター・ハルターのことはもちろんあなたはご存知でしょう。彼は親切で礼儀正しい人でとても才能のある人です。
アンリー・レーマンもあなたは名前を聞いたことがあるでしょう。
彼はレオのために私の小さな肖像画を描いてくれました。
しかし、これらの肖像画は、サンド夫人が描いたものとは比較になりません。
ルドヴィカが持っているものとは比較にならない。」
ショパンはアンリ・レーマンの自分の肖像画は以前、サンドがフレデリックを描いた肖像画とは比較にならないほど素晴らしいと
説明した。そのショパンの肖像画はショパンの古くからのパトロンの銀行家のレオが買い上げることになっていた。
「サンド夫人は、私が留守の間に新しい物語を書きました。
彼女はちょうどそれを終えたところです。
それは(セリオ・フロリアーニ)という作品です。(ル・シャトー・デ・ドルセルテ、砂の城)という題名で、私はよく知らないのですが、彼女はそれが短くて、劇画を扱っていると言っていました。
どの新聞に掲載されるかはまだわかりません。」サンドの問題作『ルクエツア・フロリアーニ』のことだ、3カ月前にもルドヴィカへの書簡で触れていたが、とうとう新聞に掲載されるというのだ。フレデリックは、
題名はまだ知らないとルドヴィカに話した。
「ローラがドレスデンから手紙をくれましたが、私はまだ返事を出していません。
これは私の癖です。彼女は親切な人で、何があっても驚かないと思います。」
ルドヴィカの親友のポーランド貴族のローラ夫人はノアンに来てサンドと会ったことがある。サンド一家はポーランドから来たローラ夫人に敬意を払わなかったことがあった。
だから、例えローラ夫人がサンドの暴露本
『ルクエツア・フロリアーニ』を新聞で見たとしても、真実を知るローラ夫人はサンドを信用しないため驚かないであろう、とフレデリックはルドヴィカに話した。
そして、フレデリックはクレサンジュについてまだ話していなかったことをルドヴィカに詳しく話した。
「ルドヴィカがサンド夫人の義理の息子(クレサンジュ)について詳しく知りたいと言うので、ここでいくつかご紹介しましょう。
彼の父親はブザンソンの彫刻家で、町ではよく知られているが、他ではあまり知られていません。
彼の父親はそのお金を町の不動産に投資しています。クレサンジュは大家族なため、
クレサンジュは少年時代にロアン枢機卿に引き取られ、その庇護の元で育ちました。
彼は教会に入るはずだったが、半年で断念し、絵や彫刻に打ち込むようになりました。
この時点で、彼の人生は様々な陰謀が見え隠れするようになり、
追い立てられるように各地を転々としたクレサンジュは、最後にはイタリアに渡り、
そして、借金のためにフィレンツェから逃れなければならなくなったのです。
父親は彼との親子の繋がりを棄てたため、クレサンジュは騎兵隊に加わったが、
彼はそこに長くはいられなかった。…」
フレデリックはクレサンジュについて、あまりにも詳しかった。
クレサンジュの経歴はまだまだ続くのだが…。なぜ、ルドヴィカに詳しく説明するのか、フレデリックは…。
ルドヴィカはワルシャワで夫のカラサンテとロシア寄りの裕福な生活をしているのだ。
ソランジュを助けるためなのか、ショパンはクレサンジュにお金を支援したいからなのか…フレデリックはクレサンジュの生まれを軽蔑していたことがあり、これは暴露も含まれているのだ。ショパンは、
絵のモデルをしながら芸術家仲間からクレサンジュのことを聞き出した、それと、世間に詳しかった銀行家レオからも。
「2年前に彼は小さな彫像を作りました。
盛んに話題になっていたフォーン(古代ローマの神ファウヌス)今年彼はその彫像を作りました。その他、いくつかの素晴らしい女性の胸像です。彼はアグアードの(スペインの銀行家)子供たちの胸像を作りました。
そして、彼はソランジュと結婚しました。」
ここまでは、ごく普通に説明が続いたが、
フレデリックは、ここからは、クレサンジュの暗い陰の物語を続けた。
「彼には友達もコネクションもありません。
彼の父親は結婚式に出席していなかったが、
手紙が一通届きました。それだけです…、
サンド夫人はクレサンジュの父親と会ったことがないのです。
サンド夫人はクレサンジュの父のことを彼から聞いただけです。
母親は一日中、下着姿でただ座っているだけだという。誰もクレサンジュの母親見たことのないのです。
彼は19歳の弟を結婚式に連れてきたましたが、彼の弟はで酔っぱらってモーリスと喧嘩してしまったのです。クレサンジュは弟をその場から追い出さなくてはなりませんでした。
この弟は彼のために使い走りをしただけでした。クレサンジュは自身は33歳。
ソランジュは18歳です。その差はあまりにも大きいと思います。
ド・プレオルクス(結婚破断した)は25歳だった。」
ショパンはクレサンジュはお金に困っているから、やはりソランジュのためにルドヴィカに支援を求めていた。クレサンジュの両親は貧しく、母親は下着姿で一日中座って誰かを待っている…日陰の女だというのだ…。
それに加えて、ショパンはソランジュの結婚式の様子まで、まるで見てきたかのように詳しすぎるのだった。ショパンは、
ソランジュと密に連絡を取り合っていたためソランジュから聞いたのだ。そして、ショパンに献身的なロゼールは、サンドには表面では媚びていたためサンドから信用されていた。
ショパンに本当のことを話さないようにサンドから口止めされていたロゼールだったが
やはりショパンの前で嘘は付けず、ショパンに話してしまったのだ。




アンリ・レーマンによるフレデリック・ショパンの肖像画
スケッチ画 1847年

ジョルジュ・サンドによるフレデリック・ショパンの肖像画
スケッチ画 1841年

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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