2019年2月18日*プロデューサーカット*お届けします

マトシンスキがフレデリックと一緒に居てくれて息子を守ってくれていることをとても喜ん
でいる愛情深い父ニコラスだった。しかし、ニコラスが気がかりであったのは、肝心なフレ
デリックの作曲家としての創作活動と楽譜の出版のことであった。
ショパンのピア協奏曲ホ短調がカルクブレンナーの不誠実な改ざんによって出版されたのは
1833年のことだった。父ニコラスはショパンの協奏曲ホ短調がカルクブレンナーの悪意によ
ってショパンが献呈したい人に献呈できず、カルクブレンナー献呈にされて出版されたこと
をなんとか改めることはできないものかと思っていた。
そのため、父ニコラスの考えで、姉ルドヴィカと妹イザベラの協力で、フレデリックがワル
シャワで演奏したオリジナルの原型をなんとか楽譜に書き残そうとした。
パリで印刷が出来てしまっては手遅れだがワレウスキというポーランド人をショパンのとこ
ろへ使えに行かせるから、既に印刷された楽譜をワレウスキに手渡すようにフレデリックに
ニコラスが伝えたのが1833年の4月のことだった。
それから、既に時は1835年4月になっても父ニコラスには良い知らせがなかった。
第3協奏曲の完成の知らせもフレデリックから全く来ないことを、フレデリックの能力からど
う考えても遅すぎるとニコラスは思っていた。
そのうえ、ワレウスキというポーランド人を使いにパリへ行かせたのにもかかわらず、
協奏協ホ短調の出版したはずの楽譜がワルシャワのショパン家はまだ受け取っていなかった
のである。
更に、協奏曲ホ短調がフレデリックが最初に想っていた人への献呈とならず、カルクブレン
ナーに献呈されてしまったことについて、息子フレデリックの本当の気持ちを知っていたニ
コラスは納得していなかったのである。
ニコラスは協奏曲1番は改ざんされ、献呈者もカルクブレンナーになったことは何かの策謀で
あると考えていた。
ショパンが最初に曲を書いた時の気持ちとは別の人への献呈のなったということは、その曲
はショパンが大切に育てた実のなる木には果実が実らないことと同じだとニコラスはフレデ
リックに力説したのであった。出版に際して邪魔した人物はカルクブレンナーではないかと
ニコラスは思っていた。
その頃、カルクブレンナーはウィーンへ演奏旅行へ行っていた。
そこでフレデリックが苦労したようにカルクブレンナーも罰として痛い目に遭えばいいと父
ニコラスは考えていた。
そして、カルクブレンナーがワルシャワへ来るかもしれないという報道を聞いたニコラスは
「あいつの顔は見たくもない」と1833年の時は怒っていたニコラスは考えを変え「喜んで会
うよ」とカルクブレンナーに会ってお灸をすえてやろうと思ったのであった。
そして、ニコラスは最近のワルシャワでの出来事をフレデリックに話した。それはチャール
ズ・フィリップ・ラ・フォントという、フランスの バイオリニスト兼作曲家が劇場で演奏会
を開いた話だ。ニコラスは、「劇場の事なんか、わたしはお前以外の演奏なんて興味がない
のだけれどね」と前置きしながら話したのであった。それは、フレデリックがバイオリンの
友人を失って寂しい想いをしているのではないかというニコラスのやさしさだったのだ。
それから、リストの企画でフレデリックは、無理やり参加させられたパーティーがあっ
た。そのことがフレデリックにとって大変だったろうと父は息子をねぎらった。
そして、チェコ最大の温泉保養地カールスバートでフレデリックと父ニコラスとユスティナ
は再会をすることを約束したのであった。
フレデリックは恐らく、ピアノ協奏曲ホ短調を最愛のコンスタンツィアに献呈したかったのであろう。しかし、
当時パリではショパンやリストが活躍する以前から一番有名であったカルクブレンナーの名
前を献呈者にすることが出版者の思惑だったのであろう。
そういうことが生真面目で実直なニコラスには我慢ならなかったのではなかろうか。
ニコラスはフレデリックにレッスンの仕事に重きを置かず天職である作曲の道をフレデリッ
クに切り開く様に勧めるニコラスだった。
ほかの作曲家とは違った孤高の高みを目指すよう息子をいざなう父ニコラスだった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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