F.Chopin、ソランジュとクレサンジェの幸せを願う聖人ショパンと人間ショパンの虚無感

自己犠牲の人間愛のショパン、それに比べてサンドの愛はショパンから自分が恋愛の対象と見られていない悔しさ、よりによって娘のソランジュは自分より下僕ショパンに懐いているとサンドは思っている。初めは自分が紹介したはずの友人達までもがサンドよりショパンが正しい、だからショパンは聖人だとサンドに言って来る、この事でサンドの自己顕示欲は傷つき、サンドの自己愛から始まったイミテーションのショパンへの愛は壊れ憎悪に変わっていった。
12月になりショパンはソランジュの父親の住むギルリに身を寄せているソランジュへ書簡を出した。
「郵便が届いてからすぐにご主人に会いに行き、あなたの書簡を届けに行きましたが、彼はチュイルリー宮殿の警備に当たっていて
夕方の7時にしか連絡が取れなかったのです。」
クレサンジェは借金から逃れるため国民軍に志願して一時軍隊に入隊していた。
ソランジュは父親の居るノアン村から近いギルリに滞在していた。クレサンジェはパリで国民軍に奉仕していたため、ショパンはソランジュから自分のアパルトマンのサン・ラザール通り34番地に届いた手紙をわざわざ
チェルリー宮殿まで(最短距離で1.6km凡そ片道歩いて22分)ショパンの手で届けに行った。目立たないよう馬車は使わず歩いて片道22分といっても、病み上がりのショパンの足取りではもう少しかかったかもしれない。
硬いデコボコの石畳みを空気の悪いパリの寒くてうす暗い道を外套の左胸の心臓辺りにある内ポケットにソランジュからの手紙を忍ばせたショパンは、目立たぬよう変装していたであろう…
ショパンはクレサンジェには直ぐは面会できず、夜7時まで待っていたのだ。ショパンは午後から出かけていったい何時間待ったのか…。既に12月だ、街はクリスマスを迎えるイルミネーションの飾り付けが始まっていた…、気温は8℃から4℃、パリは夏は日没が遅いが、12月の日没は早い、夕方4時55分日没だから、夜7時は既に暗い。
ショパン何処で待っていたのか、ソランジュには詳しく書かないショパン…。
そして、
「彼と一緒に夕食を取りました。彼(クレサンジェ)はその日のうちにあなたへ手紙を書き、まもなくギルリに行くと言っていました。それは、あなた方二人にとって良いことです。……」
 ショパンは胸からソランジュの手紙を取り出した。書簡はショパンの胸の体温で温まっていたが、書簡を持つショパンの白い手は手袋をはめていたが冷たくなっていた…。
ショパンはパリは相変わらず環境が悪く体調が良くない人が多いけれど、ソランジュはギルリに居て元気でよかったとソランジュを励ましているとクレサンジェに話した。
アパルトマンに帰り同じことをソランジュにも書いたショパンは、寒さと心労で11月と同じく自分は息苦しいと、ついソランジュに漏らす…。
(下へ続く)
(続き)
ルドヴィカから書簡が来たことも書いたショパンは、ワルシャワの門前も環境が良くないが人々は気にしていないとソランジュへ書いた。
それから、
「もう聞いていると思いますが、バスカン夫人は快方に向かっています。ロゼールがあなたへ書いたと思いますが。
ファレンピン(ジョルジュ・サンドの代理人)が彼女のところに人を送って
ドルレアン広場のアパルトマンの鍵を取りに行かせたそうです。
あなたがノアンに宛てた手紙が、あなた方に平和をもたらすことを私は大いに期待しています。
神の助けですべてが解決するでしょう。
マレシャール夫人(ジョルジュ・サンドの叔母)がノアンの消息を尋ねるために私に書簡を送ってきました。(現存なし)
私は皆元気だと書いて、いつか私自身が彼女に会いに行くと返事を出しました(現存しない)、
率直に言って、私には、お婆さんに悪い知らせを伝えに行く気にはなれません。」
サンドの叔母はサンドを加勢して来たのかわからぬがショパンは会いに行くのをさすがにに断った。
「それに、私はほとんど外出しません。
グシマーワに会いに行くこともなく、彼自身も全く外出しません。
そして、チャルトルスキ王女は2年前と同じように寝たきり起きたりして部屋から出てきません。」
 …42年から9年間サンドもマルリアニ夫人も同じ建物に住んでいたサンラザール通りのドルレアン広場のアパルトマンの部屋の鍵をサンドはついに、代理人に引き取らせに行かせた。サンドはこれでショパンと同じ建物のアパルトマンから引き上げたのだ。マルリアニ夫人も1か月程前にここから出て行った。
後は、
ショパンが出て行くだけだ…。
そして、
ショパンが話すには、
チャルトルスキ王女はこの時79歳で
ポーランドから彼女は兄弟と息子とパリに亡命し1842年にオテルランベールを買収しポーランド移民のためのチャリティーをオテルランベールで開いて来たが、彼女はこの年部屋から出て来なくなっていた。
「2年前と同様に まもなくポーランド難民のための販売会が開かれるが驚くようなことにはならないでしょう。
もう舞踏会の予定もありません。」
数年前までのようなお祭り騒ぎの仮装舞踏会はもう流行らないのでありません、とショパンは伝えた。
「ドラクロワは来ていますが、アラゴの姿はありません。マリアニ夫人は
再び住所を変えてゴドー通りに住んでいます。マリアニ夫人は、
ノアン(サンド)からとても心強い知らせが届いたとマルリアニ夫人は私に知らせて来ました。
サンド夫人はマルリアニ夫人の離婚の件で、彼女の味方なんです。彼女は同情されるべきです。
エンリコ(ノアンの昔の使用人)は完全に忘れられています。
しかし、なんという馬鹿げたニュースでしょう。私の頭の中には何の元気もありません。
何の楽しみもありません。
クレサンジェのギルリ訪問とノアンからの手紙だけです 。
神のご加護があらんことを。
 あなたに捧げるショパン」
ノアンのサンドからマルリアニへは書簡が送られてきたことはよかったとショパンは書いた。ショパンがソランジュに頼んだように、マルリアニ夫人はサンドからの手紙を待っていることをソランジュは伝えたのかはわからないが、ショパンは、人と人の間を取り持つことばかりをしていた。
ショパンは自分自身には何も楽しみがないと書き、クレサンジェに会ったショパンはクレサンジェにも恐らくお金を与えたのだ。夕食は何処でクレサンジェとしたか不明だが、
食事代も勿論ショパンが払ったであろう。
まるでソランジュとクレサンジェの親代わりのようなショパン…。ショパンはサンドから離れても、まだサンド一家に仕えているのもので、ショパンはお金も心も使い果たし虚無感を抱き始めていた。
ソランジュやクレサンジェに関わっていてもショパンは作曲家としてのインスピレーションが何も湧いてこないのだ。
そして、この頃パリの街とポーランドのワルシャワの街は何かが始まる予感をショパンは感じていた…。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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