F.Chopin、ショパン出生の秘密、シャンピ、ショパン、シャンピ、ショパン…スプレッシィ カプレッシィ…ルドヴィカに問うショパン

(ショパン肖像画と生家のジェラゾヴァ・ヴォラからイメージ)
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ショパンは自分に正直に生きてきた、
そして人間観察眼が子供の頃から優れていた。サンド一家のことも、客観的に観ていた。
ソランジュが嘘をついているか、サンドが嘘つきか見破っていた。だから、ソランジュから聞いたことを信じていたショパンはルドヴィカへそのまま伝えていた。
ルドヴィカが客観的にどう思うかも知りたかった。
ショパンのサンド批判は容赦なく続いた。
「しかし、私が心を痛めているのは、その娘さんが、母の手によって何度も風雨から守られ、大切に育てられたはずの娘が、母親の軽率さと軽薄さによって押しつぶされてしまうのです。このような母親の軽薄さは、
二十歳の娘なら許されるかもしれませんが、四十歳の母親には許されることではありません。
私は、こせれまでに母親の言ったり、やってきた行為をすべて記録するつもりはありませんが。」
ソランジュは母親サンドに受け入れられず
押しつぶされそうで、母親の浅はかさでその娘を苦しめる43歳にもなるサンドは社会的に許されない行為だとショパンは手厳しく書いた。
そして、
「過去を振り返ったときにサンド夫人の心には私の良い思い出しか残らないでしょう。」
サンドの名前を書かずに批判した後、ここでサンドの名前を書いたショパン、確かに、
ショパンはサンドにいつも優しかったのだ、
ショパンはそう言えるだけのことをサンド一家にしてきたのだ。それは誰も知らないのだ。世間からは貧乏な芸術家ショパンは金持ちのパトロンのサンドの庇護のもとで生活して来たと誤解されている…。
ショパンはそれでも黙ってサンド一家の家計と子供たちの教育を助けて支えて来たのだ。
そして8年間の月日でサンドという人物は何者なのかをショパンは決定付けた。
「…彼女は母親の最も幻想的な発作に見舞われているのです。
実際よりもはるかに優れた正しい母親の役を演じています。」
サンドは自己顕示欲が強いから自分を実際より優れていると勘違いしている、実際には軽薄で何事も人のせいにし母親失格なのだが
張本人のサンド自身は自分は立派な母親だと錯覚していると、ショパンはルドヴィカに言った。
「これは、彼女の現実とは異なる妄想の想像力旺盛な治療法のない精神病である。」
とうとう、ショパンはサンドの妄想病は治らないという結論に至った。
そしてまた、サンドの男性に対する変態的な性質と執着は自分の年齢を度外視した年齢の異性に向けられていた。
クレサンジェはサンドより10歳年下だったが、ノアンに招き入れたのはサンド自身の愛人としてサンドが呼び寄せたのだった。
それなのに娘のソランジュの方と結婚したいとクレサンジェに言われたサンドは憎しみの
化け物になってしまったというわけだ。
サンドは43歳にして初めて男に挫折したとショパンはサンドの精神病は救いようがないとした。サンドはそれでも懲りずクレサンジェより若いボリーをノアンに招き入れて愛人にしたのだ、子供の頃から母親の異常な男性遍歴を見て我慢して来た娘ソランジュはついに怒りが爆発し母親サンドを非難した、だから、なるべくして、サンド一家は崩壊したのだ。
更にショパンは、 サンドを皮肉った。
 「このようにして、被害者は不安定で不確かな土地に振り回されたのです。
まあ、「ヒノキの木にも気まぐれがある」と言いますからね(スプレッシィ カプレッシィ)(ポーランドのダジャレ、同じような似た単語の音を並べる言葉遊び)」
ショパンはサンドは犯罪者で自分のような被害者の男がたくさん続出したと、ポーランド語で皮肉った。
ショパンは、この冬の寒さはそれほどではないがパリは依然として悪環境であるとルドヴィカに詳しく伝えた。そして、ショパンの健康は…
「私は、時折、*ホメオパシー薬のボトルを時々嗅ぎながら、アパルトマンでレッスンをできる限り続けています。
私は毎日あなたに手紙を書こうとしています。」(✳︎19世期にパリやアメリカで流行った万能薬で19世期末に衰退し閉鎖した)
ショパンはお金がないのだ、サンド一家は決してショパンにお金を返すことはない…。
ショパンは薬漬けだったのか、無理をしながら亡き父ニコラスから止められていたお金のための疲れるレッスンをしていた。
 ルドヴィカへ、毎日のように書いていた書簡の12日目、最後にショパンは、
サンドの新しい小説が雑誌[討論]に掲載されたことを伝えた。
サンドの短編小説[フランソワ・シャンピ]のことだ。シャンピとは捨て子という意味で、[捨て子フランソワ]という題名だ。
サンドはショパンのことを書いた暴露本ルクレチア…だけでは気が収まらず、
ショパンの名前フランソワを使い、ショパンを捨て子と仕立てた小説を書いたのだ。Franfois k Champiフランソワ・シャンピ、Fryderyk Franciszek Chopinフレデリック・フランソワは捨て子と、酷いサンドによる、これはダジャレか…。だから、ショパンはサンドのことをポーランド語のダジャレで(スプレッシィ カプレッシィ)と皮肉って仕返ししたのだ。
…ショパンはこのサンドの悪趣味な小説のことを、
ルドヴィカへ「シャンピとは…田舎の人たちが非嫡出子の捨て子という意味で使います。
貧しい女性に引き渡され、病院からお金をもらって育てられた隠し子のことである。」
と説明した。
まさか、シャンピ、ショパン、シャンピ、ショパン、貧しい使用人の納屋に住んでいた、
ショパンの母と父に引き取られた捨て子のフランソワは貴族のスカルベック伯爵からお金を貰って育てられた、[捨て子フランソワ]
そういう意味ですか?とショパンはルドヴィカに言いたかった。
それから、サンドはショパンと別れてから、それでも飽き足りず、更に
「思い出」と題した本も出版した。
それに関してもショパンは憤りを感じていた。サンドはショパンが悔しがる顔を見たいのだ、それが狙いなのだ…、、
ショパンはルドヴィカへ書いた。
「…しかし、サンド夫人はマルリアニ夫人への書簡の中で、芸術や文学などについての最新の考察で構成され、通常の意味での回想録ではないと述べています。
まさにその通り、回想するにはまだ早いのです。
親愛なるサンド夫人は、その生涯において、まだ奇妙な道を歩む必要があり、多くの醜い事柄がまだ残っているからです。」
サンドはマルリアニ夫人に空々しい言い訳をしていた、ショパンはサンドとの事を回想するのはまだ早い、サンドのこの一方的なショパンへ対する攻撃は馬鹿げた醜い行為だとルドヴィカへ伝えた。
そして、丁度その頃、パリには、ルドヴィカの友人オブレスコフ夫人がロシアからポーランドを経由して来ていた。ショパンは彼女からワルシャワに居る母親のことを聞いていた、それを、ルドヴィカに話した。
ショパンはオブレスコフ夫人と会ってショパン自身の出生の秘密を聞き出したのか…
「…オブレスコフ夫人はお会いするたびにママのことをたくさん私に話してくださいます。
週に一度、彼女と食事をすることを約束しました。」一回会っただけでは、ショパン家のルーツの秘密が聞き出せなかったから、毎週会って続きを聞くのだとルドヴィカに言っていのだ。
ショパンはポーランド語でオブレスコフ夫人と会話し、愛して来たワルシャワの家族が本当に自分の家族かを確かめたいのだ。
サンドは母親としては妄想病だが、捨て子フランソワもストーリーこそは妄想だが、ショパンの出生の秘密を本当に知っていたのか。
それとも、サンド特有のショパンへの病的嫌がらせなのか、ルドヴィカなら本当のことを知っているのだ。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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