F.Chopin、ショパン、ソランジュ経由で大物ふたりを挙げサンドを敬遠する

ルーアン大聖堂19世紀頃スケッチ画とボンチョース大司教の写真よりイメージ
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ショパンはプレイエル音楽堂でのコンサートを無事に終わり、ゆっくり休む間もなく、
ギルリに居るソランジュへ返事を書いていた。演奏会の準備と演奏会で忙しくしている間にソランジュから30通もの書簡が2ヶ月半の間にショパンへ送られて来ていたのだ。
2ヶ月程の間に30通とは…尋常ではない、(しかし、なぜか一通も現存していない。)ショパンがいくらソランジュを気にしているとはいえ音楽家魂をみせねばならね演奏会の前にサンド経由のソランジュからのお金の話しには相手になっている暇などショパンにはないのだ。ショパンはソランジュが嘘をついていることは分かって来ていた。
ショパンが演奏会前と知っていながら、しつこくソランジュはサンド一家の嘘が誠かわからぬ話しを書いて30通も約二か月半の間に送って来ていた…。サンドがショパンの邪魔をするようにソランジュに指図していたに違いないのだ。
ショパンは返事が書けなかった言い訳を
体調のせいにして書いていた。なぜなら、ショパンの演奏会に来ていたキュスティヌ侯爵のショパンへの書簡にはショパンは調子が良かったことが伺えるからなのだ…。
ショパンは実際、いつも体調が良いわけではないため、言い訳しても疑われないのだ。
ソランジュをなだめるように、
ショパンはいつも通りにクレサンジェのことを伝えた…
「プレイエルでコンサートを行いました。その間に先週、あなたのご主人(クレサンジェ)が私に会いに来て、あなたの様子を伝えてくれたときには、私はあなたの30通の手紙の返事を書き終えていました。」
クレサンジェはショパンの演奏会の1週間前にショパンを訪ねて来ていたのだ。これもサンドから指示されたのか…
「先週、ご主人が私に会いに来て、あなたの様子を教えてくれました。私は、あなたのご主人がとても元気で、喜んでいたことをお伝えするために、最初から返事を書き直さなければなりませんでした。
あなたのご主人がとても元気で、彼の彫刻に満足していることをお伝えします。
また、あなたの不幸な黄疸のことを聞いて、とても残念に思いました。ご主人はすぐに戻ってくるでしょう それで治療は完了です」
ショパンにはソランジュことは、もう関係ないと伝えるようにモーリスに言いながら、ショパンの演奏会の前に心配事をクレサンジェを使って話しに行かせたサンドだ。
「私以上にご主人が(クレサンジェ)パリの様子をあなたに伝えてくれるでしょう。」
ショパンはサンドがクレサンジェを嫌っているのは狂言だと睨んでいたのか、サンドに言われて書いて来たソランジュへ、クレサンジェからパリ情勢は聞けばいいではないか、とチクリとソランジュ経由でサンドへ嫌味を返した。そして、
 「ルルーはパリに居て、マルリアニ夫人のところで偶然会いました。ルルーは私に会いに私のアパルトマンに行ってもいいですか?と言いました。彼(ルルー)は非常に礼儀正しく、ノアンについては私に言及しませんでした。」ルルーにとっても、ノアンのこと=サンドのことは終わったことなのだ。
ルルーとは哲学者で経済学者のピエール・ルルーのことで、彼の父親はパリの12区ベルシーに住む貧しい職人で、彼の母はパリのヴォージュ広場の貧しい酒場の女だった。にもかかわらず彼は中等教育を受けてから石工職人になり、1843年、ルルーはブサック(クルーズ)に印刷機を製造する特許を取得した。この事にサンドが関わっていた。ルルーは1841年からサンドと知り合い、「インディペンデントレヴュー」という名の文学と政治定期刊行物を発行していた。このサンドとルルーの怪しい活動は、正にこの時、ショパンがルルーと会った時、1848年2月に姿を消したのだ。まさか、ショパンがサンドと別れたと聞いたルルーは自分もサンドと別れる気になったのかもしれない、ショパンは人に影響を与えるタイプなのだ…。
そして、サンドと別れたルルーはルイ・フィリップの政権が終わった後、パリ市長に就任したのだ。
それから、ソランジュへのショパンの書簡の続きは、
「ボンチョース氏がパリに来ています。 グシマーワは体調が悪いです… 」
ボンチョース氏とは、ルーアン大司教のことで、彼は枢機卿なのだ。彼は1844年にイタリア、ローマへ行っていた、その彼は2月革命を終息させるためにパリに戻って来ていたのだ。グシマーワは具合が悪い事になっていた、グシマーワはしょっちゅうなのだ…。
ショパンは、ソランジュに書けばサンドに伝わることを計算づくで書いていた。
「パリは環境が悪いため、あなたはギルリに留まるのが正解です。時間があるときにでも書いたメモを送ってください。
私は元気になり演奏会も終わり、あなたへの返事を待たせませんから。
モーリスはパリにいますが、ここには住んでいません。
彼はララック(オルレアン広場)に来たのですが、私に会いに2階に来ませんでした。かわいそうに、彼は家の人々(オルレアンに住む芸術家の住人)に話の種を与えても何の役にも立たなかったのです。」
サンドの指示でモーリスが動いている事は、ショパンにはお見通しなのだ。モーリスに本当はショパンは会ったが、ショパンはモーリスにはもう昔のようにはお金を与えず、モーリスに帰るように仕向けた。だから、うるさいサンドと関わらないためにモーリスと合わなかったことにしたショパンなのだ。
オルレアンの人々にショパンの悪口を吹聴して歩いてもモーリスは誰からも相手にされなかった。だから、無駄な行動はやめるようにとサンドに伝わるようにショパンは書いた。
子供の頃からモーリスの性格を知っているショパンは、いつまでも悪い母親サンドの言いなりのしか生きられない青年期も終わりの24歳のモーリスを哀れに思っていた。
「ロゼールもあなたへ手紙を書きました。私はこの書簡をあなたへ送ります。
さあ、レッスンの時間です。
書簡を書くことができないことがどれほど悲惨なことか、言うまでもありません。
簡単に書くことは出来ないからです。
 献身的にお礼を申し上げます。ショパン」
ショパンはソランジュへの書簡を早く切り上げたかった。適当に書いたのは忙しいからだとソランジュを煙に巻いて書き終えた。
ショパンは演奏会をやってもお金にはならなかったのだ、だから、いくらサンド一家が集って来ても、貧乏暇なしですから無駄ですからという意味を込めてペンを置いた。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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