19世紀モスクワ赤の広場フョードル・アレクセーエフ絵画より、キュスティヌ侯爵絵画より。イメージ。
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ショパンのことを崇拝するキュスティヌ侯爵は、ショパンの音楽の熱心なファンだった。ショパンに無条件でお金を支援し、ショパンをキュスティヌの邸宅に招いたことがあり、ショパンの健康を助けて来たキュスティヌだった。
しかし、ショパンはキュスティヌが同性愛者であることがパリで有名だったためか、
キュスティヌからの誘いを断るようになり、キュスティヌはショパンに振られた心の痛手から、フランスのスパイになり彼はロシアへの旅へ行ってしまっていのだ。。その
彼はパリに戻って来ていた、そしてショパンのプレイエル音楽堂でのコンサートに来ていたのだ。キュスティヌ侯爵はショパンにサンドと別れることをずっと前から推奨していたのだ、サンドと別れたショパンはキュスティヌ侯爵をコンサートに招いていたのだ。
キュスティヌは相変わらずだった、ショパンの演奏を聴いた次の日にショパンに手紙を送っていた。
「あなたは苦しみと詩を手に入れ、あなたの作品のメランコリーは人の心にさらに深く浸透します。
あなたの作曲した曲の哀愁は、人の心にさらに深く浸透し、人は群衆の中であなたと二人きりになる。
語るのはピアノではなく、魂だ。
そして、なんという魂なのでしょう。友人のためにあなたの命を守ってください。」
✳︎ショパンが『ピアノの詩人』と呼ばれるようになった由縁はキュスティヌ侯爵が元祖だったのだ!ショパンの音楽は苦しみから生まれたポエジーそのものなのだ。(警告:転用、転載、転写、コピーは全て禁止)苦しまないところにはショパンの音楽は存在しない、苦しんだ者だけが知るショパンの音楽。(警告:転用、転載、転写、コピーは全て禁止)
ショパンの作品の憂鬱さは、ひとりぼっちを愛する人のための音楽なのだ。(警告:転用、転載、転写、コピーは全て禁止)
ショパンはコンスタンツァアのためにオペラを書きたかったがそれは叶わなかった。けれどピアノが語るのではなく魂が語り、そして詩は歌なのだ。(警告:転用、転載、転写、コピーは全て禁止)
キュスティヌ侯爵はショパンを失うことは芸術の損失だから、ショパンよ死なないでくれ!自分の命を大切にするようにショパンに
いつも変わらずに言葉をかけて来たキュスティヌだった。
「人が時々あなたの話を聞くことは慰めです。
迫り来る暗黒の時代に、あなたが理解しているように、芸術は、厳しい現実によって分断された人間を団結させることができる唯一のものなのです。
人はショパンを通して隣人を愛し、理解することができます。
あなたは大衆を友人の輪に変えた。
そして最後に、あなたは自分の天才の要求に応えることができる。
最後に、あなたは自分の天才の要求に応えることができる。私のことを考えてください。私はあなたのことだけを考えています。
いつも変わらない。」
これは、どうゆう事かと言うと、キュスティヌはロシアへ行き様々な権力者に面会し、
情勢を見聞きして来たのだ…。
やはり、ロシア寄りになってパリ帰って来た
のだ。ただ、キュスティヌはショパンを裏切っているわけではなくショパンのことは
変わらず愛していたからこそ、ショパンに
命を大事にするために、ロシアに従順になるようキュスティヌはこの手紙でショパンを説得しているのだ。だから、ショパンがもしもロシアの収容所に入ったら畑仕事か抑留か、
…キュスティヌはショパンに革命家として死ぬのではなく芸術家として生きるように最後通告をしたのだ。
ショパンはこのキュスティヌ侯爵の忠告をどう受け止めていたかは不明だ。
パリはちょうどこの後、ルイフィリップが倒れ政権が変わったのだ、当然のことながら、
キュスティヌはパリには留まることはなく、
ロシアへまた戻って行ったのだ。
いずれにせよ、ショパンがサンドから逃れ、キュスティヌ侯爵をパトロンに乗り換えるには既に時は遅しなのだ。ショパンはロシア宮廷音楽家として生きるくらいなら死んだほうがましだとショパンは思って今まで生きて来たのだ。ショパンはキュスティヌがロシア側になって自分を説得しに帰って来たことは、
この手紙ではっきりと読み取れたことは間違えなかったのだった。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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