2019年5月28日記事から、ディレクターズカットお届けします

ノアンとパリを馬車で行ったり来たりしたショパンは、なぜだか疲れを知らず新しい作品と出版の仕事で忙しくしていた。
ノアンに戻ったショパンは、シュレジンガーから依頼されていた前奏曲[作品45]を一日で完成させた。ショパンはフォンタナに早速、出版社との交渉に移るようにと筆を執った。
「この曲は、シュレジンガーが望む通りにした小品だ。
これ以降は、≪プレリュード作品45≫はメフッティの≪ベートーヴェン・記念アルバム作品集≫の中に同時に新年に登場させようと僕は考えているのだ。
だから、≪ポロネーズ[作品44]≫の君の写譜をレオ(銀行家)に渡さないようにしてくれ。
≪ポロネーズ[作品44]≫はメフェッテイに渡すつもりだ。
メフェッテイには僕から、メフェッテイの出版する≪ベートーヴェン・アルバム作品集≫には、彼の望んだ≪マズルカ≫は既に古いため、その代わりに短い≪前奏曲45≫と差し替えてはどうであろうかと彼に提案するつもりだ。
この曲はよく出来たから300フランで売ろうと思う。≪マズルカ≫はアルバムに掲載せず、付録として付ける考えだ。」ショパンは1曲500フランの設定で取引していた頃があったが、この小品は300フランで売ろうと考えていた。
それは、有名な作曲家の曲集に便乗させて1曲づつ小品を切り売りしたほうが、その都度収入が得られるからだった。自作のアルバムのようなまとまった本はなかなか完成しないし、ショパンの名前では売れないと出版社に毎度言われて来たためだ。そのうえ、
ショパンの曲集として収入を得るのは作品の完成がいつ見れるか検討もつかないからだった。職業作曲家として生計を立てることは甘くなかったのだ。ショパンは、いつも売ることを前提に頭を巡らせて考えて曲を書いていた。
そして、「トルーペナス出版が無理なことを言ってきても誰かのアルバムに僕の作品をお値打ち価格で提供してはならぬ。そして、トルーペナス出版のマーク氏が、その他の僕の曲を出版したくないと言ってきたら、他に喜んで買う出版社があるという意味を匂わせて、
イギリスの出版権を含めて、更に高い金額で600フラン請求しますとマーク氏に言ってくれたまえ。」と、ショパンは出版社との取引には強気の姿勢を変えなかった。
ショパンが強気なことが言えるにはそれなりの理由があったからだ。ショパンのことを見下して来たウィーンの出版社が、ショパンの小品を有名な作曲家の曲集に無条件で掲載することはまずなかったと推測されるのである。
ショパンは弟子のロゼール、そしてフォンタナとで有名な作曲家のアルバムの校訂のゴーストライターを請け負っていた可能性がある…。お金のないショパンはこれまでにも、権力のある作曲家のゴースト的なきつい仕事をたくさんして自分の寿命を縮める思いをしてきたのだ。だから、ショパンのこの作品もベートーヴェンとの関連性が指摘されているが、ショパンがバッハやベートーヴェンの曲を熟知していたことは不思議な事ではないのだ。
ショパンはお金のために様々な苦労をして来た、そのことを父であるニコラスからは、
「おまえは、いかなる不正にも手を染めてはならぬ、真っ当に芸術家として孤高の道を歩むように」と、厳しく忠告を受けてきていたショパンであったが、ニコラスからの忠告から何年もの歳月が経ち、ショパンはサンドの小説による破産、サンドの交友関係で使う散財でショパンはサンドに振り回されてサンドに血を吸われていたのだ。だから、いくらショパンが稼いでもすぐにお金が足りなくなるのである。。。
ニコラスに心配をかけたくないショパンは、サンドとグシマーワに嵌められて連れていかれたマヨルカ島バルデモーサ修道院の独房で地獄を味わって以来、父ニコラスに隠し事が増えていたのだ。それは、ショパン自身も自分のやっていることが良いことではないことが分かっていたからだ。サンドとの関係は、この年の1841年の年の初めに、ニコラスにとうとう気が付かれたのが最初だった。
「お前が、たいそう厄介になっている女がいるそうだが、このお友達(サンド)がどういう女なのかを大いに知りたいとお父さんは思っています。」と、ニコラスから便りがあった。ニコラスは「お前が金を吸われている女のことをマッシンスキから聞きました。その女とは別れなさい。どういうことなのか、前にも、ユスティナ(母)からも忠告したように、詐欺占い師の女とは別れなさい。私の大事な息子よ私には本当のことを話してほしいです。お父さんはお前が、詐欺占い師の娼婦に金を吸われるためにお前に仕送りをしているのではないのだよ。お前の芸術家としての成功とお前の健康をいつも心配しているのだよ。」という意味を言われていることはショパンはポーランドと家族がたとえ離れていても、子供の頃から親子の絆の深かったショパンは父ニコラスの言いたいことは痛いほど解っていたのだった。
ショパンはポーランドの家族が大事であった。だからこそ、ショパンはサンドのような女の事は家族には話すことが出来なかったのだ。。。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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