F.Chopin、ショパン、ロンドン到着し最初に向かった先は…。そして、スターリング嬢とは…滞在費を捻り出すショパンとリンド嬢の仲は…

スコットランドのスターリング嬢の実家(ショパンがスターリング嬢と歩いた庭がある)とスターリング嬢のスケッチ画から
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時は1848年4月20日ショパンはジェーン・スターリング姉妹の招待でパリからイギリスはロンドンへ蒸気船で渡った。
1日かかった船旅だったがショパンはモーリン博士から処方してもらった薬のおかげか無事にドーバーの港に辿り着く。
出発してから翌日、ショパンがロンドンのドーバー街から最初に書簡を書いた相手はパリのグシマーワへだった。
「私は病気になることなく海峡を渡りました。しかし、私は高速船には乗らなかったし、列車でできた新しい知り合いとも一緒にはならなかった。
というのも、
海上の船に乗り込むためには、打ち上げに参加しなければならない。私は事前に普通のルートで来ることにしたが、フォークストンで数時間休まなければならなかったので、ここに着いたのは6時でした。
私のためにアースキン夫人とその妹がすべてを考えてくれました。
私のために部屋を用意してくれただけではなく、私が飲むチョコレートのことまで考えてくれました。」
アースキン夫人とはジェーン・スターリング嬢の姉のことだ。二人の姉妹はパリに住んでいた。アースキン夫人の夫が亡くなってから姉妹で1826年からパリに移り住み故郷の
スコットランドとパリを行ったり来たりの二重生活をしていた。
ショパンがパリに来たのは1831年からで、スターリング嬢がショパンの弟子になったのは1843年頃だった。
ショパンがサンドと別れたことが誰の目からもはっきりとしたこともあるのか、スターリング姉妹は前からショパンの隙を狙っていたのだ。
しかし、スターリングは謎が多いのだ、姉は未亡人でスターリング嬢は子供がいたが夫が誰なのか不明なのだ。スターリングは、
子持ちで嬢?権力者の愛人なのか…不明なのだ。
ショパンはこの姉妹がロンドンでショパンのために用意してくれていた部屋が気に入らなかったのか…用心深いショパンは不審に思うことがあったのか…である…。
「…でも私は部屋を変えるつもりです。
 私は今、キャベンディッシュ・スクエアのベンティンク通り10番地にいます。
しかし、一両日中に引っ越すつもりですので、手紙は彼らの住所に送ってください。
ウェルベック・ストリート44番地 」
彼らとは誰なのか、パリからロンドンに渡ったポーランド亡命者なのか。
ショパンはスターリング姉妹が用意された部屋を断り独自にロンドンにいる仲間のいる場所に引っ越したのだ。その仲間が住んでいる建物にグシマーワへ手紙を送るように指示したショパン。
「あなたのこと(グシマーワ)を(皆んなから)聞かれました。あなたは、彼ら(ロンドンに居るポーランド亡命者)がどれほど私に親切か想像できないでしょう。(想像以上にショパンに同胞だから親切なのだ)
今気づいたのですが、私が書いているこの紙には、私の名前のCを3つ重ね合わせた組み合わせ文字が印刷されたモノグラムが描かれていることに今気づきました。
同じような繊細な気配りをたくさん受けました。今日は聖金曜日なので街を出ます。
ここでは何もすることがありません。ロンドン郊外に住む前王(ルイ・フィリップ)の側近たちに会いに行きます。
あなたは(パリで)駅から無事に帰れましたか?道中、街頭での喧嘩はありましたか?軍隊は秩序の回復に成功しましたか?
秩序を取り戻すことができましたか?
 神があなたとともにあらんことを。
あなたの古くからの友、ショパンより」
ショパンはロンドンに着いて最初に行動したのは相変わらず教会へ祈りに行くことだった。そして次に向かった先は、イギリスに亡命したフランス前国王フィリップの側近たちに面会することであった。
ショパンのポーランドの仲間のイギリス亡命者が用意してくれた書簡を書く便箋はCの文字がデザインされたモノグラムが透かし文字になっていた…。





キャサリン(カロリナ)アースキン・イ・アンダーソン(1794年3月14日 ミニガフ、カークーブリ、スコットランド、イギリス−1852年8月9日 )
ジェーン・スターリングの姉
 
ジェーン・ウィルヘルミナ・スターリング(1804年7月15日 -1859年2月6日キャッペンロス、スコットランド)
スコットランド出身
フレデリック・ショパンとトマス・テレフセンの弟子だった。
未亡人の姉のキャサリン・アースキンと1826年からスコットランドとパリの二重生活をした。スターリングは音楽や美術のパトロンでもあったが、彼女は刑務所改革、ホメオパシー薬、プロテスタントの運動にも加わっていた。ショパンにホメオパシー薬を届けていたのはに彼女であった可能性がある。
彼女がショパンの弟子になったのは1842年から1843年頃と推測される。彼女がピアニストとして才能があったかは不明。ショパンは弟子のヴェラ・ルビオにスターリングの指導を渡した。
1844年ショパンの夜想曲Op.55はスターリングへの献呈となっている。
ショパンは彼女はピアノよりチェロに向いていると判断したのか、彼女はチェロを習うことを希望したためスターリングを親友でチェリストのオーギュスト・フランショームに紹介した。
彼女の生まれは、貴族のスコットランド人であった。彼女は13人の兄弟の末娘だった。彼女は12歳のときに母親を亡くし、16歳のときに父親を亡くした。その後、姉妹でパリに移り住んだ。
1848年にショパンをイギリスとスコットランドへ招いたことでスターリングはショパンの人生の記録として有名人になった。
ショパンのロンドン滞在は地元の領主や製造業者への訪問が含まれていた。この滞在はショパンの寿命を縮めたと言われている。ショパンはスターリングから逃げたいと思っていた。スターリングのことをショパンは「彼女は死に嫁いだほうがましだ」と言っていた。ジェーン・スターリングがショパンが亡くなってから喪に服す姿を見たパリの人たちは彼女のことを「ショパンの未亡人」と呼んだ。
ショパンがロンドンの旅費や滞在費と演奏活動にかかったお金はスターリング嬢が出したという説の根拠が不明である。
スターリング嬢が出していたかに見えたお金は、実はメンデルスゾーンの愛人だった歌手のリンド嬢が全て出していた。
メンデルスゾーンが1847年11月4日に亡くなり、リンドは落ち込んでいた。リンドはメンデルスゾーンがリンドのために書いた「エリヤ」のソプラノパートが歌うことが出来なかった。
しかし、彼女はショパンとロンドンで会った1848年の暮れになってロンドンのエクセター・ホールでこれを歌えるようになっていた。ショパンとリンドはロンドンで急接近するようになりリンドのためにショパンは滞在を延長したりした。二人はお互いを褒め称えた。元々メンデルスゾーンのゴーストをしたことがあるショパンはリンドが歌い易いように曲を手直しした可能性があると見られる。
ショパンのロンドン滞在費はその報酬だった可能性がある。
リンド嬢はロンドンに滞在中のショパンを自分が出演するオペラハウスに招待したことがあった。最高の招待席に招いてもらったショパンはリンドのことを称賛した。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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