2019年3月11日記事よりプロデューサーカットお届け致します

ショパンは17歳の時、妹エミリア14ふ歳を結核で亡くしている。ショパン自身も子供の頃から体が弱く、両親はフレデリックの健康をいつも心配していた。しかし、
ショパンは体が弱い反面、好奇心が強く、貴族に仕えているかのように見えても魂だけは売り渡さない強い精神性があったようだ。
時は1837年7月中旬、ショパンはピアノ製作会社「プレイエル商会(Pleyel et Cie )」、イグナツ・プレイエルの息子カミーユ・プレイエル(1788年 - 1855年)と共にイギリスはロンドンへ小旅行をした。
イグナツ・プレイエル1832年に亡くなったため、財産整理の経営に関わってきたカルクブレンナーは、ピアノの製造と貸し出しを行うプレイエル&Co.を既に1829年に設立してい
た。そのためカルクブレンナーがショパンにカミーユとロンドンへ行くように勧めた可能性があるのだ。
その頃、ヨーロッパは産業革命が進む時代でイギリスは特に1830年代にかけて運河時代と呼ばれる時代で運河建設が進んでいた。
1830年代後半になると蒸気機関車の鉄道網の整備が進み始めていた。
ショパンはロンドンで当時一流ホテルであったサボイア・ホテル(現存しない)にカミーユと滞在した。馬車と使用人を雇いお金を浪費したようである。
恐らくショパンはロンドンでも音楽家として名が知られていたため、オペラを鑑賞
し社交界に出入りするにはそうせざる得なかったのであろう。
ショパンはフォンタナの意向でおしのび旅行だったはずだが、ここロンドンでもヴォジンスキ夫人からの手紙をロンドンの案内人コズミアンを経由して受け取ったのである。
ショパンはコズミアンに礼を言いながらも、ヴォジンスキ夫人にうんざりしていたので
ある。
ショパンはロンドンのことを、何もかもが巨大であり、粗雑で、一見綺麗に見えるが実は汚いのであると感じたようだ。
ロンドンは短期間だったら楽しめると、パリで待っている友人マッシンスキに伝えてくれとパリのジュリアン・フォンタナに話した。
産業革命の真っ只中のロンドンの深刻な大気汚染はショパンの健康にとってよくないことは間違いなかった。
ショパンは、ロンドンでは晴れがましい演奏会はなかったが、カミーユと共に、イギリスで有名なピアノ製造技師でチェンバロ製作者のジョン・ブロードウッド( 1732年10月6日 - 1812年7月17日)でピアノメーカーのブロードウッド・アンド・サンズの創業者の息子二代目のジェームスと面会した。
そこで、ブロードウッド邸のプライベートな集まりピアノを演奏したのであった。
ショパンはこの出来事についての言葉は残っていないが、ショパンはウィーン時代からピアノの製造に興味があったため、この訪問はカミーユと共にピアノ製造の発達にショパンも一役買ったのであろう。
その他、ハンプトン・コート、リッチモンド、ブラックウォール、チェスター、ブリントン、アランデル、をショパンはカミーユと共に駅馬車で巡ったのであった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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