F.Chopin、ポーランド人としてと音楽家としての断る理由…、フランショームはいいよな、いいところに君は生きていて…1円にもならないショパン

サザーランド伯爵家本邸ダンロビン城とショパンの写真から、イメージ
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ショパンはサザーランド侯爵邸に招かれて以来、毎晩のように貴族の夜会に招かれ慣れない食事と聞き慣れないイギリス貴族の長い長い名前と顔を覚えるだけでもうんざりしていた。
そして、ロンドンの空気は相変わらず公害がひどく毎日のようにどんよりとしていたためショパンの疲れた身体と神経を蝕んでいた。ショパンはとうとう自宅で休養を取るしかなかった。
「自分に与えられた3日間の休息と同様に、私にとっては良いことでした。私は今、ロンドンの社交界を多少知っています。
私が紹介された多くの女性たちは、名前を聞いても私はすぐに右から左へと忘れてしまうのです。」
ショパンはグシマーワに書簡を書いた時は、
サザーランド城に行く2日前だった。その後ニ週間後に今度はパリのロゼールに宛てて、サザーランド城で何があったか報告したショパンだった。
「さて、
私はサザーランド公爵夫人の家で 女王の前で演奏しました。
女王、アルバート皇太子、プロイセン皇太子、ウェリントン、ガーター勲章受章者全員の前で演奏しました。」
1848年5月15日の出来事だったが、プロイセン皇太子が招かれていた。
この、わずか一週間前にはポーランド、大ポーランド蜂起またはポズナン蜂起、(グレーターポーランド蜂起)で5月9日にポーランド軍が降伏プロイセンが勝利したところであったのだが、プロイセン皇太子は2月蜂起後の3月19日にイギリスへ逃げて来ていたが、
5月12日プロイセンへの帰国予定を公に発表したところだった。
ショパンは事前に出席者を全部知らせていたかは不明だが、ショパンとしては厳しい条件下での集まりだった。
「そこで、洗礼式が行われ80人の選ばれた人たちの集まりでした。
この日の夜は、歌手のラブラッシュが歌い、 マリオ、タンブリーニも登場しました。
女王陛下は私に私に一言二言非常に優雅な言葉を話しました。しかし、私は疑っています。
宮廷の喪に服す期間が22日か24日まであるので、宮廷で演奏するかどうかは疑問です。
陛下の叔母の一人(ソフィア王女)のために、22日か24日までの宮廷喪中が始まったばかりだからです。」
ビィクトリア女王はショパンの想定通り
『ショパンさんロンドンにおいでになってくださり嬉しく思います。今度、宮廷の晩餐会でロイヤルフィルハーモニーと共演なさってください。』
こんな具合に声を掛けて貰った光栄なショパンのはずなのだが、宮廷は喪に服す期間があるため、ショパンが次に宮廷に招かれ演奏する頃には宮廷は喪に服して演奏会は催さないはずだとショパンは予想していた。
パリのプレイエルでのコンサートの時、
やはりパリの貴族が喪中で貴賓席がガラ空きでショパンは恥をかかされたことを思い出すショパンだった。 
「家でも少しレッスンをしています。
素晴らしい客間で演奏する約束もいくつかあります。
晩餐会で演奏することがありますが、これが数ギニーの収入になります。しかし、
どんなに節約しても赤字になってしまいます。家賃は値上がりし、週に10ギニー払わなくてならないのです。
 確かに、私はロンドンでも最も美しい地区の一つにいます。…」
ショパンは3人目となるロゼールにもピアノが3台あることは実は困っていると書きながら、
しかも、家賃は週50万円だというのだ、
美しいところとはいえ、一等地ではないのだ、家主はショパンを追い出すように
誰かから指示があるのか…、ショパンは
困り果てていた。
「…素晴らしい階段もあります。
この一日か二日同じ建物に滞在しているマンズーロウ夫人は、これはたいしたことではないと思っています。それは、
私のイタリア人の付き人(考え得る限り最も典型的なイタリア人)は、私が階段で苦労をしていることを嘲笑しているからです。
彼は、私が個人専用馬車ではなく、乗り合い馬車を使った場合、彼は夜会に私に同行することを拒否するため、
私はそれを我慢しなければなりません。
でも、これ以上の人はいないので、我慢しています。」
ショパンはパリでも階段には苦しめられていたが、ドーバー街の建物の素晴らしい階段に
も苦しめられていた。イタリア人の付き人はポーランド人のショパを助けることはなかったが、ショパンはパリのようにポーランド人の付き人を独自に雇うことも許されなかった。
「しかし、私は何かしなければならないと思っています。私は、フィルハーモニーとは演奏しません。
紳士たちの親切な申し出にもかかわらず、私はフィルハーモニーでは演奏しません。」
ショパンはサザーランド城では独奏したが、
今度は宮廷に来てロイヤルフィルハーモニーと共演しなさい、と女王に言われたのだ。
だから、ショパンはイギリスの宮廷音楽家にはなりたくないのだ。
ショパンがもし、イギリスの宮廷でイギリスのオーケストラと共演したら、ポーランドへの裏切りになってしまうからなのだ。
ショパンの意思は固かった。
ショパンのやりたくない他の理由は、
グシマーワにも話したようにロゼールにも話した。
「たった一度のリハーサルで何の演奏もせず、結果的に上手く合うわけがないのです。私は宮廷で演奏したいと思っている人たちを排除するようなことはしたくありません。」
ショパンは祖国愛のために断るだけではなかった、
断わらず演奏した場合は、オーケストラとピアノは合わない悲惨な結果をまねき、女王が機嫌を損ねた場合オーケストラの団員の誰かが排除されかねないと予測した。
もし断った場合は自分の代わりにロンドンの社交界に慣れているハレに話しを持っていこうと考えたショパンなのだ。
「ハレには私が決断したらすぐに伝えると約束しています。」
ハレには既に打診していたショパン、
「ハレは宮廷に必要な人材です。」
ショパンは、
「また、私は人前での大きなコンサートも避けています。
貴族の邸宅の広間で、150人から200人に限定したコンサートをやろうと思います。
リンドに会ったことがありますが、彼女は魅力的で、天才的な歌手です。
ヴィアルド夫人に会いましたが、ここロンドンでもとても魅力的でした。…」
ショパンはグシマーワに話したように、
ロゼールにも書くことで必ず書簡が仲間の誰かには渡るように念には念を入れた。
「彼女は、劇場(コヴェント・ガーデン)で開催されたコンサートで、私のマズルカを私が頼みもしないのに快く歌ってくれたのです。」
ショパンはボーリヌが歌ってくれたことだけがロンドンに来て心が救われたことだった。
「彼女が歌ったのは《夢遊病の女》だけですが、今度は《理髪師》と《私のカプレーティ》を上演するそうです。
ロンドンの特許劇場で女王の許可の下上演されていたオペラは、ロッシーニとベッリーニであることをショパンは伝えた。
《セビリアの理髪師》ロッシーニ
《私のカプレーティ》ベッリーニ
《夢遊病の女》ベッリーニ
…ロゼールに書き終えたショパンは
次の日はグシマーワに書いていた、
「先週は天気が悪くて、私にとっては全く良いことではありません。その上、私は毎晩遅くまで晩餐会に出かけなければならない。私にはそのような生活をする体力はありません。お金を稼いでいれば悪くはないのですが、今のところ20ギニーの有料の仕事は2つしかありません。」ショパンの出演料金は一回100万円でサザーランド城での演奏と次の
貴族の邸宅での演奏の予定で二回で200万円
、しかし収入をようやく得たと思ったら、
有名人ショパンだから稼いだと直ぐに世間に知られてしまい、悪徳家主が一週間で50万を払うよう無理な取り立てをしてくる。
一回の稼ぎが一般人より多く見えても、ショパンは社交界の晩餐会への出席で度重なる高額出費、交通費を一般人の乗る馬車で節約したくても、
付き人から『閉鎖空間の移動で頼みますよ、あなたは有名人ショパンさんなのですから』
と馬鹿にされてしまうのだ。
晩餐会に招かれて…とは聞こえはいいが、1円にもならないどころか、出費が嵩みショパンは借金地獄なのだ。
ショパン曰く、「毎晩のパーティーも高額な稼ぎがある身ならば悪くもないであろう」、と皮肉るショパン、
「20ギニーの有料の仕事は今のところ2つしかありません。家では1回1ギニーでいくつかのレッスンをしていますが
しかし、きちんとしたコンサートを開く計画はまだありません。」
このような状況のショパンにとって自宅の弟子のレッスンはアルバイト料金にもならない割に合わない悲惨な仕事なのだ。
レッスンは1時間5万円、一般人の仕事から見たら1時間で5万円は驚く金額だが、ショパンは弟子は5人から3人に減った、その三人も次はいつ来るか確約はないのだ。定職がないショパンは定期的に収入がないのだ。お金のためとはいえ弟子は一見さん(いちげんさん)の場合もあるのだ。つまり、ショパンは出費に比べて収入が無いに等しいのだ…。
だがらロゼールの手紙の最後にも「フランショームにも手紙を書くからな〜…」とフランショームに伝えるようにショパンは書いた。
フランショームは素晴らしい住まいと家族に恵まれパリ音楽院の主任教授でショパンのチェロソナタはフランショームのために何度も何度もショパンが書き直したことは忘れもしないことだ。
ショパン「君はいいところに住んでいるよな」とフランショームに言う程、ショパンは
フランショームと親友なのだ…。
話しはグシマーワへの書簡にもどる、
「私はこれまでに
女王、アルバート皇太子、プロイセン皇太子の前で演奏しました。
サザーランド公爵夫人の最もエレガントな社交界でも演奏しました。私の演奏は好評でした。」
そして、ロゼールに書いたことをグシマーワにも宮中は喪に服しているから、自分への招待は嵌めるのが目的の罠ではないかという疑念を持っていると話した。
「私はフィルハーモニーと共演したくありません。」何度目であろうか、何度も何度も訴えるショパン。
「莫大な疲労を伴うだけで、一銭の得にもなりません。リハーサルは1回だけ。
大成功を収めたければ、メンデルスゾーンを演奏しなければなりません。
上流社会では通常、舞踏会や声楽コンサートしか行われません。
女王はこれまでコンサートを開いていません。…」ショパンはどうすればいいのかは
ポーランドのことしかなかった。
ロンドンでショパンは進んでいるのは産業だけで貴族社会は何ら昔と変わらないことを観て感じていた。
サザーランド伯爵家本邸ダンロビン城
1230年創設の最古のスコットランド貴族爵位
(写真現在)

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです