2019年1月13日記事から、プロデューサーカットお届けします

1830年はフランスの七月革命の影響で、ポーランドでは独立運動が高揚していた。
1830年11月25日、ワルシャワの士官学校で反乱が始まっていたこともショパンは
まだ知らなかった。
ショパンは演奏活動のためにウィーンで貴族や大使の伝を辿って様々な人に面会しようとし
ていた。
社会は不安定な状況に入っていたため、ウィーンで演奏会を開く資金を貸してくれる銀行も
なく、ショパンはウィーンで行き詰まりを感じていた。
それでもショパンは、ウィーンの宮廷オーケストラ団長のアウグスト・ミッタークにを訪ね
ることや、ポーランド人でウィーンに家族で移住していたシャシェック夫人を訪ねたりし
た。
エルカン夫人というウィーンの銀行家の妻でポーランド人である人物の計らいで銀行家の集
いに招かれたこともあったがショパンに演奏の話はなかった。
また、ウィーン社交界の重要人物のザーロモン・ロートシルト(1774-1855)銀行
家でウィーン支店の創始者など、その他の貴族や実業家にもショパンは面会しようとしてい
た。
その他は、ホッサジェスキの紹介でマインドルフ男爵に面会してから、マインドルフ男爵の
紹介でウィーンでロシア駐在大使のドミトリー・パブロビッチ・タチーシチェフに面会する
予定になっていた。
ショパンが、会ったかどうかは不明であるが、ショパンは演奏会を開くことが出来なかった
のであった。
ポーランド領内はロシア、オーストリア、プロイセンの統治下であったが、内乱状態に
入っていた。
ショパンは、父親からの仕送りが足りなくなってきていたため、ウィーンに留まる
ことは諦め、イタリア行きの資金と度々通うオペラ劇場のお金を更に送って貰うよう
父に頼んだ。そのため、ワルシャワでは戦争に入っていたうえにショパン一家は家計が更
に圧迫されてきていた。
時は18世紀の終わり、貴族社会は転換期を迎えようとしていた。ショパンもその状況の渦の中にいたのだった。

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです