F.Chopin、ショパンの友人ファニー、そして「どうでもいいことです」ショパン節炸裂!

ショパンと親しい友人だったサルトリス夫人
ファニー・ケンブル
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ロンドンを後にしスコットランドのカルダーハウスに滞在していたショパンは、グシマーワ、フランショーム、プレイエルに書簡を書く間に毎日のようにワルシャワの家族への書簡を書き溜めていた。そして、フォンタナへもカルダーハウスから悲痛な書簡を書いたのは家族へ書簡を書き溜めている間の出来事であった。
ショパンは作曲も手につかず、ピアノも弾きにくい状態であっても誰も助けてはくれないことなどフォンタナに吐露した。ショパンが一番信頼していた調律師も亡くなってしまい、ショパンの足に合う靴を作ってくれていた腕の良い職人も居なくなってしまったのだ。ショパンが考える職人芸や心から感動できる芸術は失われていた。そんなロンドンでも音楽活動をしていたのはパリで友人だったソヴィンスキだった。彼はロンドンで人気があった、ショパンはソヴィンスキの大き過ぎる手は馬を引っ叩くムチを持つ家柄の出であり、彼が出すおぞましい荒っぽい音を聞いても平気であるロンドン大衆のことがショパンには芸術のわからぬ哀れな人々にしか見えなかったのだった。ショパンの好きな絵画はというと観ても不快でしかないものが流行りでありショパンはロンドンへ来たことを悔やむしかなかった。
しかし、ワルシャワの姉ルドヴィカや母ユスティナにはフォンタナに書いたようなことは到底書けないフレデリック…
「いつも一週間以上前に届いた歓迎の手紙をありがとうございました。」

ショパンは家族からの書簡(現存しない)の返事をガルダーハウスから書き始めた。
「ロンドンにてあなたからの書簡を受け取りました。私はロンドンで3ヶ月間過ごしましたが、かなり良い状態でした。

私は健康です。」心配かけぬように書くフレデリック…。
「私は2つのマチネーコンサートを行いました。1つはサルトリス夫人のところで、もう1つは彼らはファルマス卿の邸宅です。
どちらも大成功でした。
騒がしい宣伝もしませんでした。」

ショパンはワルシャワを出て以来、何処に居ても有名人であった、家族はワルシャワに居てフレデリックの演奏会の成功をショパンの友人や新聞から情報を得て喜んでいたのだが、ロンドンでのフレデリックの活躍はワルシャワの家族の耳には入ってこなかった。
ショパンは家族を安心させるために、
ショパン自身がうるさい宣伝やうるさい広告をださなかったからだ、と家族へ伝えた。
ショパンがロンドンに来て招かれたサルトリス夫人の邸宅での演奏会はショパンがパリに居た時からショパンは
サルトリス夫人と知り合いであったからであった。ショパンはファニーについて語った。「彼女は、若い頃は旧姓ファニー・ケンブルといい、イギリスの有名な俳優の娘さんです。彼女自身もイギリスの有名な歌手です。
彼女はサルトリス氏と結婚する前のわずか2年間は舞台で活躍していました。
彼女は流行に敏感な富裕層で、
彼女はロンドン中の人々から愛され社交界ではどこでも歓迎され、誰もが彼女の家にやって来ます。」
ファニーはサルトリス夫人を名乗っていたが実は彼女の結婚は不幸な結婚だった、彼女はは離婚をしていた。アメリカで俳優の父親と活躍したがロンドンでは親の七光りで甘やかされた演技と評論家に手厳しく批判されたファニーは舞台を去ることになっていた。
彼女の邸宅は[イートン・プレイス99番地]そこで、ロンドンに来ても演奏会の招きがなかったショパンにサルトリス夫人は邸宅を貸したのであった。ショパンは招かれたというより自身で開いた演奏会だとワルシャワの姉や母に書いた。

そして、「もうひとつは、ファルマス卿は偉大な音楽好きで、裕福で、独身貴族で、私に邸宅を提供してくれました。
セント・ジェームズ・スクエアの彼の邸宅を、私のコンサートのために使ってくださいと、彼はとても私に親切にしてくれました。
街で見かけると愛想がよくて、3ペンスも持っているとは思えないほどです。彼は
家では自分より良い服を着た下僕をたくさん抱えているのです。
彼の姪はパリでは知っていましたが、ロンドンではコンサートで見ただけです。」
ショパンはファルマス卿での演奏会のことも
ロゼールに書いた事とは真逆なことをワルシャワの家族へ伝えたのだ。
そして、演奏会のプログラムのことも
ヴィアルド夫人との「ショパンのマズルカ」の一件も家族へは書かないフレデリックだ。
「ある私のコンサートで、マリオが3組の曲を歌ってくれました。
私は4つのグループを演奏しました。2つ目はヴィアルド夫人が3つのグループを歌いました
私は4曲演奏しました。彼らはそれがとても気に入ったようです。
このような短いコンサートはパリでは聞いたことがありません。ロンドンではこのような短くてコンパクトなコンサートにしか出演者は慣れていないのです。
20種類ものアイテムが並び、巨大なポスターが貼られた長いイベントでした。
私のことを書いてあるアテネウム紙からの一行を送ります…」
ショパンはロンドンでの自分の置かれた状況を家族へ心配かけないように説明をしたのだが…
それから、
「私は、他の人がどうとか、誰かがうまくいったとか、そんなことはどうでもいいのです。」
ショパンはこんなことは自慢にもならない
些細なことだと家族へ心境を書いた。
アテネウム紙(1828年から1921年)はロンドンで出版されていた文学と政治的記事を載せていた。ショパンはこのロンドンで話題の文芸誌に載ることは下らないことだと家族へ伝え、ショパン節が炸裂したのだった……。
アテネウム紙の1846年号の表紙
英国はロンドンの歴史的文芸誌1828年から1921年まで刊行された。
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1828年にジェームズシルクバッキンガムによって発刊された。フレデリック・モーリスとジョン・スターリングに売却された。
1829年にチャールズ・ウェントワース・ディルケが編集者になったが1846年編集を辞任、ロンドンのデイリーニュースの編集を引き継ぎ注目すべき記事をアテナエウムに寄稿しました。
1846年から1853年の間、詩人で批評家のトーマス・キブル・ハービーか編集者でした。1853年から1869年は歴史家で旅行者のウィリアム・ヘプワース・ディクソン が編集者でした。
ファニー・ケンブル 
旧姓フランシス・アン・ケンブル
 1809年11月27日−1893年1月15日ケンサルグリーン墓地
アメリカとロンドンで活動した女優
奴隷解放活動をした。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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