【フレデリック・ショパンが忘れてはならない人と言った夫人とは…】

ハリエット・グローテ夫人
(1792–1878)
英国の伝記作家ジョージ・グローテの妻であった。
19世紀初頭の南オーストラリア州建国を支えた哲学的急進派へのパイプ役だった。
彼女の友人は彼女を「全てが型破り」と表現した。
彼女の父、トーマス・ルーウィン(1753–1837)は外交官だったためマドラスに数年間過ごしました。
彼はヨーロッパに戻り、ポンディシェリからグラン夫人と一緒に船で旅行しました。ルーウィンは1780年代にパリにしばらく滞在しました。
イギリスに定住したルーウィンは、1784年にメアリーヘイルと結婚。(1843年に亡くなる)。彼女はジョン・ヘイル将軍とメアリー・チャロナーの娘でありギーズバラのウィリアム・チャロナーの娘でした。
ハリエット・グローテは、1830年代前半に南オーストラリア協会の初期メンバーとして活躍した夫のジョージ・グローテを支援した。 
南オーストラリア植民地建設の重要人物であるジョージ・グローテの妻ハリエット・グローテは、彼の優秀で型破りな支援者であり、ジェレミー・ベンサムやジェームズ・ミルさら哲学的急進派のグループをまとめる社会的接着剤であった。
ハリエット・グローテは、自身も作家であり音楽家であったが、独学の夫が主著『ギリシア史』(全12巻)を執筆できる家庭環境を手助けをした。
ジョージ・グローテはその後、1830年代前半にロバート・グージャーと共に南オーストラリア協会で働き、英国下院のロンドン市担当議員(1832-41)として、1834年に南オーストラリア植民地化法を支持。
ジョージ・グローテは銀行家の父の財産を相続し。ハリエットはロンドンの自宅で哲学的な急進派改革者や文学者、芸術家のためのサロンを開いた。
フレデリック・ショパンは1848年ロンドンを訪れた際に歌手ジェニー・リンドと共に2人だけグローテ夫人宅に招かれた。グローテ夫人はリンドのパトロンだった。ショパンは夜9時から午前1時までリンドの歌の秘密の練習に付き合いリンドが歌いにくい場所を教えて伴奏をした。
そのお礼はショパンがロンドンで行ってみたかたが招かれなかった『女王の劇場』への招待チケットであった。



英国の伝記作家
ジョージ・グロート(1794年11月17日– 1871年6月18日)
英国の政治的急進主義者であり、古典的な歴史家。ギリシャの膨大な歴史を研究した。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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