フレデリック・ショパン、ショパンの遺書とは「音楽という領域が芸術の分野と見なされていない責任は音楽を職業とする人々にあるのです」ショパンは悟った…グシマーワへショパ最後に託した芸術への信念とは…

♬ショパンの肖像写真とグシマーワの肖像画からイメージ🎶🎶🎶🎶🎶🎶🎶🎶🎶🎶🎶
ショパンは、エジンバラのホープトゥーンハウスに招かれた。この城は、チャールズ・ホープ、ホープトゥーン伯爵(1681年– 1742年2月26日)初代の貴族として住んでいました。次に、ジョン・ホープ、ホープトゥーンの第2伯爵(1704年9月7日– 1781年2月12日)が引き継ぎました。推測では、ショパンが招かれた頃はジョージ・ウィリアム・ホープ( 1808年7月4日 - 1863年10月18日 )は英国の保守党の政治家、1841年から1846年まで 、戦争国務長官とロバートピール政権下の植民地の管理を務めました人でした。
ショパンは、この城での演奏会のことは詳しく語りませんでした。
ショパンがエジンバラに来た頃、歌手ジェニー・リンドや、グルジ、マリオ、アルボニーなど有名オペラ歌手が公演にグラスゴウに来ていました。ショパンはリンド嬢が出演する
オペラ《夢遊病の女》を自分の演奏会の合間に観に行きました。そこでテノール役にパリで活躍していたオペラ歌手ギュスターヴ・イッポリテ・ロジャー(1815年12月17日-1879年9月12日)が出演していました。ショパンはロジャーの歌は平凡でつまらなかったとリンド嬢と「そういうことにしとこうとにしましょう」、と意見が一致した。孤児だったロジャーはベルリオーズに気に入られパリ音楽院で一等賞を得た経歴だった。ショパンにとってはその頃、ショパンはベルリオーズにひどい目遭わされパリ音楽院のことも
ショパンは冷遇されたことは遺恨があり怨念があるのだ。
「ロジャーはつまらない奴だ、おしまいにしよう」とショパンはグシマーワにも語った。
ショパンはイギリスでもうまくやっている
ロジャーには関心しなかった、ショパン自身は冬はどうするか、生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。
ショパンはホープトゥーンハウスに招かれ、政治家のジョージ伯爵に僅かながらも期待があったのか、面会して何を話したかも全く不明だ。グシマーワへは演奏するプログラムがなかなか決まらないとだけ話していた、その後演奏がうまくいったかどうかも一切、ショパンは語っていないのは、恐らく期待外れ、または、予想通りの外れくじだったのだ。グシマーワへ珍しく短く報告したショパンは、
ドラクロアにも伝えるように促した。そして、ガルダーハウスに数日後に帰ったショパンは、すぐにベルハーヴェン夫人の邸宅があるヴィシャウへの招きに応じる返事を夫人に宛てて送った。
ショパンの日程は、10月4日、エジンバラのホープタウン・ルームでのコンサート終了後、
メアリー・アースキン・スクール(クイーンストリート)のホール で演奏しショパンは数日間滞在、その後カルダーハウスに帰る。
そして、
10月16日、ベルハーヴェン夫人に宛てて書簡を書いた。……「奥様、もし私がまだお仕えすることができますならば、
お招きいただきましたが、何日にお伺いすればよいでしょうか。
ウィショーに敬意を表します。私は今日カルダーハウスを出発し、エジンバラに向かいます。. . . I
同じ頃、ショパンはワリストン・クレセントに3日間滞在した。
その頃、ハイデルベルクに居たショパンの弟子で親友のアドルフ・グートマンに宛ててもショパンはグシマーワと同じように書簡を送っていた。
ショパンは同じ書簡を何通も書き同時に友人に送ることはこれまでも幾度かあった。
ショパンは自分の境遇をほとんど執念で書いていたのである。
その5日後、ショパンはグシマーワへまた書簡を書いた。
音楽家の地位の低さには音楽家にも責任があるのだと、ショパンは
書き記した。しかし、残念ながら、書簡は全部は現存しない…
「…「芸術」とは、ここでは絵画、彫刻、建築のことである。
音楽は芸術とみなされていないため 、音楽家は芸術家と呼ばれることはありません。
芸術家というと、画家や彫刻家、あるいは
建築家のことなのです。
そして音楽は職業であって芸術ではないと思われています。
誰も音楽家を芸術家と呼んだりしませんし、雑誌や印刷物で音楽家のことを芸術家(アーティスト)という言葉で表したこともありません。
彼らの中では、音楽は芸術とは異なるものであり、言語や習慣が異なる職業であると思っているのです。
これは、どのイギリス人に聞いても、彼らは同じことを言うと思います。
作曲家ノムコムもそう断言しているのだ。
もちろん、それは音楽家に責任があるのだ。
そのような概念を変更できるのは、あなた
(グシマーワ)だけです。
彼らは非常に幻想的な曲を気味悪く奇怪に演奏するのですよ、それを美しいと勘違いしているのです。
ですから、彼らにまともなことを教えようなんてことは馬鹿げたことなのです。
侯爵夫人は....彼女は. 最も地位の高い人物の一人で大女優で音楽家であると、私が数日過ごしたこの国の重要な女性たちのお城では
そう呼ばれているのですよ、
さて、私が演奏した後、他の
スコットランドの女性たちがいろいろな歌を歌った後、彼女たちは一種の
アコーディオンを演奏し始めると、彼女はとても重々しく、そして演奏しました。しかし、彼女は何を期待しているのだろうか、どうやらこの手の生き物はみんなネジが緩んでいるのですよ。」
ショパンほどの卓越した芸術家の後に、
地位の高い侯爵夫人は平気な顔で奇妙な音を出して得意げに演奏する様はショパンには耐え難かった。
ショパンはイギリスでは、音楽は芸術と見なされていないことは、作曲家ノムコムも
同意していることに憤りを覚えていた。
ノムコムはイギリスでは全てが金、金、金なのだとショパンに話したのだ。ノムコムはうまく金儲けをしていい暮らしをしていたのだ。音楽は芸術より低い地位に誰がしたのか?それは音楽をやっている音楽屋さん自身
なのだとショパンは言うのだ。歌手のロジャーへの評価もショパン自身の遺恨の感情だけではなかった、それだけの理由があったのだ。
音楽が廃退してゆく様を観て聴いたショパンは音楽が芸術として扱われないのは音楽家自身に原因があるのだと危機感を募らせていた。
だから、その風潮を、変えられるのは
グシマーワしかいない、と芸術が解るのは君しかいないからだとショパンは主張した。ショパンは自分が何を発言したところで誰も聞こうとしないし、ネジが緩んだ人々には理解することは無理であろうと、侯爵夫人と面会して痛感した。
ショパンは自分の命はいつまでもつかを感じていたし医師に言われていた。だから、
これは、芸術をグシマーワに語るショパンの遺書でもあった。グシマーワに自分の信念を託したいフレデリックだった…。
カルナヴァレ美術館所蔵
アンドレ・アドルフ・ユージーン・ディスデリによる肖像写真1860頃(1819 − 1889)
ギュスターヴ・イッポリテ・ロジャー
(1815年12月17日-1879年9月12日)
フランスのテノール歌手。彼は、1846年にベルリオーズによってファウストの堕落で主要なテノール役に抜擢され、1849年にマイアベーアの預言者としての役割を果たし有名となる。ロジャーはパリで生まれたが、幼い頃に孤児となり、叔父によってパリで育てられた。彼はパリ音楽院でブレ・マーティンに師事し、歌と朗読で一等賞を獲得した。
1838年、ロジャーはパリのオペラコミック座で、ジャック・アレヴィのエクレアでプロデビューした。
彼はその後、ダニエル・オーベール(悪魔の分け前のラファエル、1843年、ハイディーのロレダン、1847年など)、アレヴィ(保安官のエドガルド、1839年、オリヴィエ)の作品を含む、その会社の新しいオペラで多くの主要な役割を演じた。ロジャーは、 1838年にアンブロワーズトマスによってレジョンスのペルキエで最初の侯爵であり、1846年に同じ劇場でファウストの堕落の最初のファウスト役した。彼は明確で純粋な歌声と音楽的知性で賞賛を得た。
1848年、ソプラノのジェニーリンドと一緒にイギリスをツアーした。
彼はオペラコミック座からオペラに移り、 シ1849年にマイアベーアの大成功を収めたオペラ「預言者」で大成功を収めた。
1850年から1860年の間に、ロジャーはドイツで7回のコンサートツアーを成功させた。
1859年、ロジャーは狩猟事故の後で腕を切断しなければなりませんでした。彼は人工の腕でオペラを舞台で歌い続けました。1868年からはロジャーはパリ音楽院で歌を教えた。
現代の見解ではギュスターヴ・イッポリテ・ロジャーは、オペラコミック座でキャリアをスタートさせ、歌手として俳優として有名になったがパリオペラ座では、彼の声は重すぎて、声の衰退を引き起こしたとみなされている。
✳︎1948年ショパンはロジャーをグラスゴウで聴いた。ロジャーはジェニー・リンドと共演した。ショパンとリンドら共に、彼は相変わらず平凡だった、とロジャーを評した。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
ホープトゥーンハウスはスコットランドの低地にある城でエジンバラ中心部の西約15kmのサウスクイーンズフェリーに近接している
18世紀に建てられた城です。
ホープトゥーンハウスは建築家ウィリアムブルース卿の計画により、1699年から1707年の間にジョージアン様式で建てられ、多数の天井画が施されている。後に1721年から1767年には現在のファサード、列柱、北と南のパビリオンが建築家ウィリアム・アダムの設計で建てられた。アダムは1748年の建設工事中に亡くなり、アダムの2人の息子、ジョンとロバートが引き継ぎ完成した。
19世紀に入り、城の内部は模様替えされ、ジェームズ・ギレスピーグラハムによって設計されたステートダイニングルームは、インテリアデザインの傑作とされている。
✳︎1848年10月4日フレデリック・ショパンは
晩餐会に招かれ演奏した。

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです