フレデリック・ショパン、命からがらパリに戻ったショパンが真っ先に会ったのは…、そして、ロシアからショパンに最後の誘いか…ショパンの最後の選択は…

🎶ショパンの写真とオブレスコフ夫妻の肖像画からイメージ🎶
ショパンは11月23日イギリスを発ち、
翌日24日日曜日正午頃パリに到着した。
イギリスから命からがらパリへ戻ったショパンは、それから翌年1月末まで医師の治療を受けながらアパルトマンで療養していた。
毎日、寝ては起き、起きては寝て、それを
1日のうちに何度も繰り返していた。
それでも気がかりなクレサンジュにはパリで無事に再会したショパンだった。
クレサンジュがショパンを見舞ったのか、
ショパンが体調が少しは回復した日にクレサンジュに会いに行ったのかは不明だが、
恐らくショパンは自分からクレサンジュに会いに行ったに違いない…そして、ショパンが
パリに戻って1か月と1週間が経過した…
クレサンジュとパリで会ったことをギルリーに居るソランジュへ伝えたショパン…
「ここ数日、あまりに体調が悪くて、書簡をあなたへ書くことができなかったのです。
私はあなたのご主人にお会いしました。
金曜日に来てくれたのですが、あなたのご主人はお元気そうでした。そして、私はキムを見つけました。
ご主人の彫刻の準備は万端でした。
「虚栄心」 という題名の作品の像の制作に取り掛かられています。
昨日、ご主人から届いた書簡にそのように説明がありました。」
ショパンは新しい使用人キムさんを雇うことにしたのであろう。以前のようなポーランド人ではなさそれだ…。
ショパンはクレサンジュに会いに行ったし、
その後、クレサンジュからもショパンに会いに来た。更に、その数日後にはクレサンジュから書簡も届いた。
ともかく、クレサンジュはイギリス行きの意思を固めて今度はショパンを訪ねてきたのだ。ショパンはクレサンジュにロンドンから書簡で打診したことへの意思を確かめた。
そして、ロンドンでウケる作品を早速制作するようにクレサンジュにショパンは
助言したのだ、その作品の題名が「虚栄心」
つまりは、自惚れ、、ということだ。
誰のことなのか、サンドか、イギリスで会った貴族の退屈なご夫人達の中の誰かのことなのであろか…。恐らくはそんなところか、芸術のわからぬ人が目を背けたくなる、芸術のわからぬ人の本性を暴く作品か…。
ショパンのアイディアでクレサンジュは動く…。その作品に目を背けたくなるはずの人は虚栄心が強いため、自分のことだともわからずにわかったふりをして、
パリで流行っている有名なクレサンジュ君と聞いただけで、それを賛美しお金を払うであろう…というショパンの算段なのだ。そして、それはイギリスで様々な晩餐会の場で
酷い目に遭わされた、そしてパリとノアンそして忘れもしないマヨルカ島でサンドに散々苦しめられたショパンの報復なのだ…。
ショパンは、クレサンジュならば、悪趣味がもてはやされているロンドンでもやっていけるであろと思った。そして、クレサンジュはは自分の助言を決して裏切らない、いや、裏切らせない自信がショパンにはあったのだ…。
「彼は、あなたの良いニュース(ソランジュの2度目の妊娠)のことを話されました。
あなたは勇気があり、そして、とてもお元気だとクレサンジュ君から聞きました。」
ソランジュは最初の妊娠も母親サンドとの激しい諍いで大事なお腹の子供の命を失った過去があったが、ショパンがこの時、ソランジュを経済的にも精神的にも支えた。そして、次のソランジュの子供は前の年の1848年に生まれたが、生後1週間で娘のジャンヌを亡くしていた。失意のソランジュを励まし支えたのは、その時もショパンだった。
ソランジュは不運が続き、今度こそはの3回目の妊娠なのだ。ショパンはソランジュを見捨てず支え続けて来た…
「パリは3月の陽気です。私は1日10回も横にならなければなりません。
モリン博士は私を引きつける術を持っていましたが、彼が亡くなってから、私は次は
ルイス氏、次の2ヶ月間はロス氏、そして今回のサイモン氏はホメオパシー医として高い評価を得ている。しかし、彼らは
を、それぞれ違う方法で医療行為を行うのですが、私はなかなか改善されません。
彼らは皆、次の点では意見が一致しています。それは、
気候、静かな休息と安静!
私は彼らの助けを借りずに、いつかそれを手に入れることが出来るでしょう。」
ショパンはまだ望みを捨ててはいなかった、
何人も医師を変えては何がいいのかを
探りながらも、安静しかないという意見に行きつき、それを忠実に守り、いつかは医師の手をかりずに自然に休息を取れるようになり元気になれると信じていた。
「パリの他の地域は、最近、一瞬たりとも乱れることがない。移動警備隊や政治クラブ閉鎖のための省令など多少の混乱が予想されます。昨日の月曜日はいたるところで兵士と銃を見かけました。
この断固とした態度は政治的問題を引き起こす人々に印象を与えた。今、私でさえ、面白いニュースをあなたに送る代わりに、政治について書いています。」
ショパンは1日10回も寝ては起きてを繰り返していたが、その合間の気分が良い日には、パリの街の様子を観に出かけていた。
ソランジュにこの書簡を書く前日の月曜日に外出していた。本当は誰かを訪ねに行ったのかもしれない…
「しかし、私は以前にも増して馬鹿になりつつあり、その原因は
毎朝、コーヒーの代わりに飲んでいるココアのせいです。
あなたは決してココアを飲んではいけません。あなたの友人にココアを飲んでいる人がいたら、あなたは辞めさせてください。」
ショパンはホットチョコレートを辞めていたがイギリスで毎回のようにスターリング嬢がホットチョコレートをショパンに勧めるため、ショパンは断りきれず困っていた。
ショパンはコーヒーも医師に止められたのか、次はココアで気を紛らわせるようになっていた。しかし、カフェインがあることにはあまり変わりがないため、ショパンは一向に体調が良くはならなかった。度重なる夜型の過酷な生活でショパンはカフェインに依存していた。医師からもカフェインに依存することを辞めるように忠告されるほどショパンは常用していたのであろう。しかし、このショパンのチョコレート類のカフェイン中毒はポーランドにいた少年の頃からの筋金入りのため、ショパンは人には忠告できても、わかっていながらなかなか辞められない環境にあった。パリでも濃厚なホットチョコレートや濃厚なココアが流行っていた…。
「特にあなたと通信している人にはココアに依存するのを辞めるよう忠告してください。
 次回のあなたへの書簡を送るまで、
サイモン氏が私にくれるかもしれない匂いを嗅ぐ薬(機知に富んだ硫酸塩)について書きためておきます。
それまでは、この書きかけの文章を読んでください。
ご主人の健康と勇気に感謝します。」
ショパンは鼻から香りを嗅ぐ薬を医師から勧められていた…医師はあの手この手と、
次なる治療をショパンに試した…。
ショパンは医療費のことは話さないが、誰かに払って貰っていたのであろか、不明だが、姉ルドヴィカかもしれない…。
ともあれ、クレサンジュはロシア行きを辞めて、ショパンの野望の助言作をロンドンで新しい彫刻「虚栄心」として発表すると、
ショパンと約束したのだ。
「オブレスコフ夫人は私に会いに来ました。
昨日は、
シュトックハウゼン男爵やレグーヴ、その他の人達が来ました。私は
 サンクトペテルブルクのことは、彼らの前では話したくなかったのです。
あなた方はご存知と思いますが、
オブレスコフ夫人は短絡的な方で、よくしゃべるのです。」
恐らく、シュトックハウゼン男爵は夫人と一緒に来たのかもしれない。
ショパンはシュトックハウゼン夫人に
「舟歌」を献呈したことになっていたが、これもまたショパンの意思ではなかった。
これはロンドンのヴェッセル社とショパンのパトロンの銀行家レオが決めたことだった。
パリからロンドンへ行く最後の演奏会では、ショパンは「舟歌」を完奏できず倒れてしまったということになっているのだが…。
真実はショパンのみぞ知る…。
ともかく、ショパンに最後通告がロシアから来ていたのかもしれない…ショパンのパトロンだったキュスティヌもロシアへ行きパリに帰っていがショパンは同性愛者のキュスティヌの説得にも応じなかったことも過去にあった。
そして、このシュトックハウゼン夫人の父親は公証人なのだ。だから、ショパンにサンクトペテルブルクに住むようにシュトックハウゼン夫妻は説得に来ていた。だが、ショパンは何人もの人達の前で政治的な話しをしたくなかったのだ…。
ルドヴィカの友人で高名ロシア貴族でロシア人のオブレスコフ夫人もショパンをどうにか説得しようとしていた。
オプレフコ夫人のことは、ショパンは4年前までは「とても優しい、いい人です」と信用しきっていた。ショパンのポーランドの家族である、母親とルドヴィカをポーランドから極秘でオプレフコ夫人が指し迎えた場所に乗せてパリに連れて来るという計画をオプレフコ夫人に持ちかけられたことがあった。しかし、それは何故か計画倒れだった…。だから、ショパンはオプレフコ夫人のことも不審に思うようになっていた。そのオプレフコ夫人がわざわざショパンに会いに来ていたのだ…。
ショパンは何故、ソランジュにこのような内密な話しまでしたのか、行き場のないショパンは、サンドの今の本心を確かめようとしていた…
ソランジュに田舎でどうしているのか、母サンドと本当は会っていることをショパンは知りながら、サンドが何を考えているかを
書いて来るようにという意味を込めてショパンはソランジュに促し書いた…
「あなたは私に数行の書簡を送ってください。
あなたがどのように生活を維持しているのかを私に話してください。そうすればあなたは時間を無駄にすることはないでしょうから。」
ショパンは身の振り方を早急に決めなくてはならなかった、時間を無駄に出来ないのはショパン自身だった。だから、『早急に私は身の振り方の答えを出したから、あなたの意思を一言でも私に書いてくだされば。そうすれば、私がいつまでもあなたに、このように事情を話すこともしなくてよくなり、あなたに私のために時間を取らせることもなくなります。』そういうことなのだ…。
ショパンは自分からはソランジュが身を寄せているソランジュの父親の家に行くことは出来ない、ましてや今さらサンドの館は誰も住めない状態で、サンドは更に田舎に所有していた家に逃げている、そこへ行きたいとは自分からは言えるはずもないショパンだ。
ソランジュの知り合いでもいいから誰か紹介してほしいショパン…。
ショパンが「サンクトペテルブルクについて議論したくなかった。オブレスコフ夫人は単純な物の見方しかわからないから話しにならないと」と、ソランジュ書いたが、オブレスコフ夫人はかなり頭脳明晰な人であることはショパンはわかっていた。ショパンはソランジュにそれは書けない…ソランジュにショパンは、『私は貴方を助けて来た、だから今度は私を助けてほしい』と、言えれば楽なのだが、はっきりとは言えない立場のショパン…
ショパンはソランジュが生活して行けるようにソランジュの夫クレサンジュ君を助けていた。その代わりに、行き場のない自分を助けてほしいとソランジュに言いたいのだ。
「幸せ !健康 !そして再び健康!ショパン」
最後にソランジュに対して助言したショパンだが、それは、自分を顧みず生きて来たショパンが、思うように何もできない身体になってしまった自分を悔しく思う現れでしかなかった、
『幸せと健康!』と叫んだショパン。
自分の幸せなど考えたこともなかったショパン…幸せと健康が最後には欲しかったショパン…神に祈るように書簡を書き終えた。
マルガレーテ・シュトックハウゼン
(1803年3月29日 ゲブビレル– 1877年10月6日コルマール)
彼女は歌手でありシュトックハウゼン男爵の妻だった。
マダム・シュトックハウゼンと呼ばれ、スイスの歌を歌いイギリスで活躍した、フランスのアルザス地方出身の歌手。
彼女は1820年から1830年代にかけて歌手として活動した。
彼女はハープ奏者のフランツ・アントン・アダム・ストックハウゼン男爵(1789-1868)
と結婚した。
彼女の息子のジュリアス、フランツ、アンリ・ストックハウゼンは作曲家として活躍した。
彼女の生い立ちはアルザスのゲブビレルで生まれ、父親は公証人だった。
彼女は有名だったイタリアのオペラ歌手
ジョセフォ・カトルフォにパリで歌を学んだ。そして、1822年にケルンのハープ奏者だったフランツ・シュトックハウゼン男爵と親密になった。息子のジュリアスが生まれた後、家族はロンドンに移り、彼女はスイスの歌で有名になった。1828年に彼女はギター奏者のマッテオ・カルカッシを伴って、コンサートを行った。彼女はハープ奏者でもある夫とも度々共演することがあった。
その後、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトのアリアも歌い、イギリスとスコットランドで活動した。彼女は更に、アルザス、スイス、ドイツ、フランスでも公演を行った。
1840年に家族はパリのコルマールに移り住んだ。彼女は1877年10月6日に亡くなった。
晩年はパリに住み数回のコンサートを行った。
彼女には6人子供がいた。音楽家になったのは歌手のユリウス・シュトックハウゼン(1826-1906)と、ピアニストで弟のフランツ・シュトックハウゼン(1839-1926)だった。
✳︎ショパンの舟歌は彼女に献呈されている。


ギレリー邸宅
(ロット・エ・ガロンヌ県のポンピエ地域)
ジョルジュ・サンドの元夫のカシミール・デュデヴァント男爵(1795-1871)の邸宅
✳︎サンドの息子モーリスは結婚するまでは父親デュデヴァントに会いによく訪れていた。
ソランジュは1849年母サンドと折り合いが悪くなりパリ2月革命後はノアンとパリに住めなくなり、デュデヴァントの邸宅に身を隠していた。
写真は1920年頃
エルネスト・ルグヴェ
(1807年2月15日パリ-1903年3月14日)フランスの作家、劇作家、詩人、道徳家、女性の権利の擁護者、評論家
ナタリー・オブレスコフ
(1795年1月18日-1862年又は1865年不明)
国籍:ロシア
住居:パリ
家族:ロシアのシェレメーチェフ貴族
彼女は、ナタリー・オブレスコフは、ヴァシリー・セルゲイビッチ・シェレメーチエフ少将とタチアナ・イヴァノヴナ・マルトチェンコ伯爵夫人の娘であった。1817年12月19日、宮廷の侍女に任命された。1818年4月21日、モスクワの三位一体教会で、外交官の息子で士官のディミトリ・オブレスコーフと結婚した。母の話しによると、ナタリーは「背はやや高いが、美しくはない」。しかし、彼女は「非常に優秀で勉強熱心」だった。
ドリー・ド・フィケルモン伯爵夫人によれば、彼女の初期の結婚生活は「模範的な結婚の例であり、お互いの優しさと愛情が長期的な幸福を約束しているようであった」という。しかし、1830年にヴィルナ政府に就任した夫は、上院議員ミハイル・ボビアチンスキーの妻と不倫関係を持ち、「これからは君とは共通点を持ちたくない」と妻のナタリーに宣言した。
それを機に、1838年以降、ナタリー・オブレスコフは、ほとんど常にパリに住み、サロンで音楽を愛する上流階級の社交界で芸術家のパトロンになった。S・D・チェレメチェフの証言では、「彼女は、パリに住み、上流階級のサロンの世界で一定の配慮と特別な魅力を醸し出していたロシア人貴族の女性で、彼女は、ロシアのサンクト・ペテルブルクにはごく稀しか行っていない」と証言されている。
✳︎パリでは、オブレスコフ夫人がフレデリック・ショパンを庇護し、その娘がショパンに弟子入りしていた。幻想曲ヘ短調op.49は、1841年の娘カトリーヌの結婚(ジャン・ソウトゾ王子)当初に献呈されている。
ショパンの最後の借金をオブレスコフ夫人が支払ったと言われている。
オブレスコフ夫人が所有していた未発表の楽譜アルバムが現存しており、そこには1838年から1852年にかけて夫人の手によって注釈が加えられた65冊の楽譜が収められている。

彼女の家柄は、ロシアのシェレメテフ貴族である。アレクサンドル・ネフスキーの子孫であるロシアのイヴァン1世の時代の白雲母のボヤールであるアンドレイ・コビラから来た。シェレメテフの祖先であるアンドレ・シェレが登場するのは5代目で、そこから16世紀と17世紀に、そして皇帝の親戚から始まった。したがって、イワン雷帝の息子イヴァン・イヴァノヴィッチと結婚したエレーヌ は1581年に怒りの発作で彼自身の父によって暗殺された。多くのシェレメティエフはタタール人またはリヴォニアに対する軍事作戦、およびカザンの捕獲に参加した。彼らはモスクワ、ヤロスラブリ、リャザンまたはニジニノヴゴロドの近くの情報を受け取った。
彼らがロシア国家の頂点に立つのは 17世紀にさかのぼります。ピーター・ニキティッチはプスコフの要塞を保持しています。フョードル・イワノビッチは、ミハイル・ロマノフがロシアの王位に就くために選ばれたときに味方した人の1人で、ゼムスキー・ソボルの力を強化することを支持していた。この家族の最も著名なメンバーの1人は、アストラハンの占領後の1706年に、ロシアで最初に伯爵の称号を獲得したボリス・シェレメティエフです。
シェレメティエフは、 1917年の革命後、主にフランスに移住した。その子孫は、フランスのロシア音楽協会の会長になり、パリ第2大学のロシア音楽院の学長であり、国際競争審査員のメンバーであったピエール2世伯爵を含む。
マダム・オブレスコフが所有していた未発表の楽譜アルバムには夫人の手による注釈が付けられた65のスコアが含まれている。当時のヨーロッパのすべての有名なピアニストや、歌手、作曲家に関する彼女の知識を示している。彼女がロシアに戻ることはめったになかったが、彼女はサンクトペテルブルクに滞在したとき、ニコライエフスカヤ通り(現在のマラット通り)のゼウスキー邸宅に定住していた。彼女はそこに外交官を招待しダンスパーティーを開いていた。彼女は人生の終わりに糖尿病に苦しんだ。彼女はメイドと一緒にヴィシーの海を癒すために 水を飲んでいる間に突然死したと伝えられた。
彼女は夫と一緒にパリのモンマルトル墓地に埋葬された。

キャサリン・ド・ソウゾ
オブレスコフ夫人の娘キャサリンの肖像(サラトフのラディシュチェフ大学美術館所有)
キャサリン(1822-1874)
彼女はパリでショパンの弟子だった。ショパンの幻想曲は彼女が結婚する時に捧げられた。ショパンはこの曲を1841年ノアンで書き上げた。同年、シュレシンガー 出版社により、1840年、パリ大使の息子ジャン・ソウツォ王子と結婚したキャサリン王女に献呈として出版された。
1840年、彼女は非常にハンサムな男であり、モルダビアのホスポダルである父親のパリ大使であるジャン・ソウツォ王子と結婚した。

ドミトリー・オブレスコフ
(1790年-1864年1月16日にパリ)
ナタリー・オブレスコフ夫人の夫
彼は、ナポレオン戦争当時のロシアの将校で、トヴェリ政府、ヴィルナ政府の秘密顧問に任命された。
彼はナポレオン3世のもと、パリで生涯を閉じた。彼の栄誉 は、聖ウラジーミル勲章、聖アンナ勲章4級、聖アンナ勲章2級、3級。

ドミトリー・オブレスコフは、オチャコフ包囲戦(1788)の英雄であるミハイル・オブレスコフ上院議員(1764-1842)と、妻のキャサリン・タリジーナ(1772-1803)の息子であった。彼の父方の祖父は外交官のアレクセイ・オブレスコフ(1718-1787)であり、母方の祖父はエカチェリーナ2世を王位に就かせた1762年の宮殿革命に参加した上院議員アレクサンダー・タリジン(1734-1787)。
彼の兄弟アレクサンダーはシュトゥットガルトとトリノの大使であり、彼の兄弟ニコライはボールの間に宝石の盗難のスキャンダルの著者であり、その結果彼は社会から追放された。
彼は1804年3月3日から外務大学で中尉を務め、1810年2月にセミオノフスキー警備連隊の少尉となり、翌年中尉となる。
1812年の戦争中、彼はビルナからの撤退からボロジノの戦いまで、クトゥーゾフの将校だった。
彼は10月13日にボロフスクの町にあるクテイニコフ少将の旅団に送られ、そこで敵の分遣隊と戦った。「敵の戦隊が残酷に攻撃したとき、彼は並外れた勇気と勇気を持って捕虜になり、大佐と10人の兵士を連れて行き、恐れを知らずにコロツキー修道院に敵を追いかけたと伝えられている。1813年に彼は上級中尉、1817年には大尉になった。彼は1819年に大佐となり、翌年、ウグリチの第63歩兵連隊に移された。
ドミトリ・オブレスコフは1818年4月21日にモスクワで、マルチェンコ生まれのタチアナ・イワノフナ(1770-1830)と結婚した。
彼は1830年に民間人の生活に戻った彼は、3月6日にトヴェリの知事に任命されました。
しかし、ビルナの政府に任命される前に10か月しかそこにとどまりませんでした。しかし、ベンケンドルフの報告で、オブレスコフはビルナに到着するとすぐに諦めたとされていた。彼は政府からの名誉な式典に現れなかった。したがって、彼はビルナに戻る前に、1832年5月2日に辞任した 。1835年から1844年まで彼は債務決済のための州委員会の管理者になり、1840年に彼は枢密院顧問(ロシア)に任命さた。
結婚して12年後、彼は妻をボビャティンスキー上院議員の妻に任せた。カウント・セルギウス・シェレメテエフは、オブレスコフは社交界で「素晴らしい」「ダップル・グレイ」と呼ばれていた。 彼は教会に時折り現れ薄紫色の手袋を決して脱がなかった。彼は非常に背が高く彼は常にまっすぐ立っていた。などと伝えられている。また、彼にはギリシャの王子と結婚した娘がいた。
彼は人生の最後の数年間をパリで過ごした。彼はパリで1864年1月に肺炎で亡くなった。彼は妻と一緒にモンマルトル墓地に埋葬された。
聖アンナ勲章1級(1831年8月30日)
聖ウラジーミル2世勲章(1838年4月21日)
白鷲勲章(1842年12月6日)
1812年の愛国戦争を記念したメダル
パリの占領のためのメダル
クルムの十字架(プロイセン王国)
 ✳︎彼は、妻ナタリーの開催するパリの上流貴族のサロンで、フレデリック・ショパンと親交があった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです