フレデリック・ショパン、行き場のないショパン、パリでソランジュへ書き続ける…サンドの心境は変わるのか…変わらず真っ直ぐなのは誰か…

ショパンがソランジュに書簡で自分の身の振り方の助けを求めた後、ソランジュは母サンドにそのことを話したに違いなかった。
サンドは別れたショパンに直接連絡することは今さら出来なかったし、する気も全くなかった。
その代わりに、ショパンの親友のポーリヌにサンドはショパンの様子を教えてくれるように密かに書簡で頼んでいた。
パリに戻っていたポーリヌはノアンに戻っていたサンドへ返事を書いた。
「ショパンの消息についてお尋ねですが、私が言えることは次のとおりです。
ショパンは健康状態は徐々に悪化しています。彼は馬車で出かけられる日もあれば…割愛……
彼は、もう夕方には出かけなくなりました。
しかし、ショパンはレッスンはできるし、調子のいい日は陽気でいられる。
というのが、厳然たる事実です。
いずれにせよ、私が彼に会ったのはずいぶん前のことなのです。
ショパンは3回ほど私に会いに来てくれましたが、私は出かけていました。
彼はいつもあなたのことをとても尊敬していますし、彼は変わらないと信じています。」
恐らくサンドはショパンを中傷した書簡を
ポーリヌに送ったのだ、しかし、ポーリヌは、ショパンはあなたが言うような方ではないですよ、とサンドに返事を書いたのだ。
ショパンはパリに戻ったものの、レッスンの回数が少なく、生活費をまかなうことができなかった。[ショパンは3月(後にこう記していた]そして、ジェーン・スターリングとその妹は、彼に25,000フランを匿名で贈ることを決めた。アースキン夫人はその紙幣を小包で送り、それをコンシェルジュのエティエンヌ夫人に手渡した。
しかし、ショパンは7月までその金のことを何も知らされなかった。
この出来事は、結局はショパンは、スターリング姉妹が匿名と言いながらも、実は自分達の社交界の評判を上げるための演出でしかなかったことが後で判明する。ショパンはお金は受け取ってはおらず、しかしながら、金に困っていたショパンは、結局、5月21日、ロスチャイルド家から1,000フランを受け取り、さらに友人のフランコム、エルボーから借金をしなくてはならなかった。
…ソランジュに書簡を書いてから3か月が過ぎた頃、再びソランジュに書簡を書いたショパンだ、「私はオプレフコ夫人に会いました。
彼女はあなたのサンクトペテルブルク行きの入国許可の役に立つ情報を持っていないのです。政治の地平線は着実に暗くなっていると思います
世界のその地域で、そして一ヶ月前に困難だったことは今はさらに難しいと思われます。
ロゼール嬢からあなたは元気と伺っております。
神があなたの健康をお守りしますように。
私は私の終わりにいます。
私は4番目の医者を試しています。
彼らは10フランを私に請求します
彼らは時々1日に2回来ますが、彼らが私に与えるすべての治療で、私が
ほっとすることはほとんどありません。」
なんと、ソランジュはショパンがロシア行きをあれほど止めたにも関わらず、まだ、サンクトペテルブルク行きを検討していたのだ。ショパンは、
その相談に乗れないと安に断った。
 そして、前回と同じように、ソランジュを説得した、「さて、あなたの夫は私が私のを終える時間がある前に私に会いに来ました。
…割愛…あなたのご主人は私にあなたの健康の良い知らせを持って来てくれました。
この世界ですべてを持つことはできません、
ですから、あなたは、
すべての健康の祝福の中で最大のものに満足してください。
御主人は、ロンドンに行くことを考えています。
そして私は彼が正しいと思います。
すべてがそこにあります、
彼はそこで大成功を収めるでしょう。
イギリスについては私が書簡で援助をして差し上げます。そうすれば、あなたは私に頼ることができますから。」
ショパンは自分の人生は終わりかもしれないと話しながらも最後までソランジュに書き続けた…。

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです