F.ショパン、サファルニア村で歌っていた貧しい女に217円恵んでユダヤ人のマズルカを歌わせた…

身体が弱かったショパンは、夏休みに
サファルニア村へ行き、新鮮な食べ物が豊富にある大自然の中の環境で体力を付けることが父親ニコラの方針でもあった。
フレデリックは1824年と1825年の2回の夏をサファルニア村で過ごした。
その他はフレデリックはいたって普通の少年の生活をしていたようだが、サファルニア村から家族へ書いて送っていた書簡は、
フレデリックが既に風変わりな才能を発揮していることが現れている。
サファルニア村9番地から、ワルシャワの両親に田舎新聞として面白おかしくフレデリックは書いた。
フレデリックの書いたこの新聞は、ポーランドを代表する雑誌『クーリエ』を真似していた。「サファルニア・クーリエ」と題していた。
サファルニア・クーリエより…
「外国のニュース
1824年8月29日。ピションはニェザワを通りかかったとき、村のカタラーニ3世が柵の上に座って声を限りに歌っているのを聞いた。
しかし、残念なことに、どんなに努力しても、その言葉を聞き取ることはできなかった。
彼は二度フェンスの前を通り過ぎたが、言葉が通じない。
ついに彼は好奇心に駆られ、ポケットから3スーを取り出して、もし彼女が歌をもう一度歌ってくれたら、それを歌手に約束した。
しばらくの間、彼女は大騒ぎし、怒鳴り、拒否しましたが、しかし、彼女は3スーに誘惑され、彼女は決心して歌い始めた。
その中から、当局と検閲の許可を得て、編集者が一節を引用させていただくと、小さなマズルカを歌い始めた。
ほら、狼が山の向こうで踊っている。
狼は妻がいないことに心を痛めている。」
既にフレデリックは子供ではなかった。
これはユーモアといえない。
まずは、サファルニア村は同じポーランドでも外国ほど違うとリポートしている。
ニェザワ通りを歩いていると、ひとりの哀れな女がマズルカを声高らかに歌っていた。
ポーランド語なのだが地方のなまりがあるのか、フレデリックには言葉が聞き取れなかった。通りがかった後も気になったフレデリックは、ポケットから僅かな小金を出して
「このお金をあなたに差し上げますから、もう一度歌ってもらえませんか?」と、貧しい
女に頼んだ。すると彼女は、お金に目が眩みもう一度歌出だした。フレデリックは、
『ほら、狼が山の向こうで踊っている。
狼は妻がいないことに心を痛めている』
このマズルカの歌詞を書き留めたのだ。
『当局と検閲の許可を得て、編集者が一節引用させていただくと…』
この辺りは大人びたフレデリック…。
お金を払って許可を得たからか、このマズルカを引用すると書いたフレデリックなのだ。
そして生まれた曲が〈小さなユダヤ人〉だった。そしてフレデリックは、これをきっかけにマズルカに傾倒していった、フレデリックは自分がマズルカを作曲で生きていくことになるであろうと予測した。フレデリックは、
そのことを、こう書いていた。
「1824年9月3日(火)。9月9日、ピション氏が〈小さなユダヤ人〉を演奏しているとき
、ディジワノフスキ氏がユダヤ人の牛飼いを呼び出した。
そして彼に若いユダヤ人の名手についてどう思うか尋ねました。
モーゼスは窓にやって来て、鉤鼻を部屋に突っ込み聞いた。それから彼はピション氏がユダヤ人の曲を演奏することをしたら、
結婚式で彼は少なくとも10フロリンを作ることができるのだと宣言した。
ピション氏にこの種の音楽を一生懸命勉強するように勧め、
そして、このような有益な音楽を作り、彼がやがて自分自身を完全に捧げることができるのかは、誰が知っているのかわからない」
フレデリックは、ユダヤ人の牛飼いのモーゼスにこのような類いの民族音楽であるユダヤのマズルカをたくさん作れば、10ブロリン稼げるよ、と言われたのだ。しかし、思慮深いフレデリックは、このような金儲けのために
曲を作ることはいいことではないと思っていたが、モーゼスは牛飼いの老人ではなく、
誰かの例えなのだ、フレデリックは
マズルカをたくさん作るように説得されたことに将来の不安を感じていた。
自分の人生のレールを誰が敷いているのか?誰も知らないけれど家族は知っているのだろう?とフレデリックは書いた。

アンジェリカ・カタラーニは、(1780-1849) 1820年ポーランドのワルシャワを訪れた際、ショパンに金時計を贈ったイタリアの名歌手だ。
イタリアでデビューし、1814年ナポレオンが失脚したとき、ショパンが4歳のときパリに帰り、ルイ16世に仕えていた。
カタラーニ夫人から金時計をフレデリックが貰ったのは10歳の時、このサファルニアの14歳の時の話しに出てくる、路上で歌っていた貧しい女にカタラーニという呼び名をフレデリックは嫌みであだ名を付けた。そして、その女に、フレデリックは、3スーのお金を恵んで、ユダヤに伝わるマズルカを歌わせた。
3スーとは当時、パンを一個買うほどのお金だった。それほど貧しい女だった。
〈小さなユダヤ人〉は歌詞が付いていた歌から生まれたことになる。
 狼とは家族を故郷に残して戦いに行った寂しい兵士のことを歌っていると推測される。
フレデリックは14歳にして意味を知りながら
新聞記事として書いてワルシャワの両親へ送った。

 


ドミニク・ジエワノフスキー
(1759プウォンネ、クヤヴィ・ポモージェ県
–1827プウォンネ、クヤヴィ・ポモージェ県)
彼はポーランドの陸軍将校、ワルシャワ公国軍の将軍だった。
彼はマゾビア(ポーランド中北東部の歴史的地域)の貴族の家柄だった。
彼の父はヘウムノの城主、ジュリアス・ジエワノフスキーであり、彼の母はルドウィカ、ニー・パウロフスカだった。
ドミニク・ジエワノフスキーはプロイセン陸軍に所属し、その後ポーランド軍に所属しました。彼はスタニスワフ・ポニアトフスキ王子の補佐官を務めた。
彼は、1794年のコシチュシュコ蜂起に参加しリピンとワビシンで戦った。コシチュシュコ蜂起の鎮圧後はポーランド軍を継続的に支援した。
1806年に、彼は第6ランサー連隊を結成し、ワルシャワ公国軍に加わった。
彼はナポレオン戦争で連隊長として戦った。1807年ポメラニアで、トチェフとグダニスク1809年サンドミエシュの2回目の戦争に参加した。1810年旅団長に昇進し、ウォムジンスキ県の軍事司令官に任命された。1810年から12年にかけて、彼はルブリン部の軍事司令官を務める。そして、ナポレオンの1812年ロシア作戦では、彼は第4騎兵師団(第4騎兵予備軍団)の第28軽騎兵旅団を指揮し、ミールとロマノフで戦った。ベラルーシでのボリソフの防衛中に、彼は重傷を負い、ロシア人に捕虜にされた。1814年、彼は田舎の土地に定住し、残りの人生を過ごした。
彼は、1824年と1825年の夏、シャファルニャの邸宅にショパンを招いた。ジエワノフスキーの息子はショパンと同級生で友人だった。


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