F.ショパン、ショパンという人物像のイメージは何処から作られたのか…そしてショパンの懺悔のマズルカ…

🎶ショパンの生家🎶

ショパンの生家は元々は納屋の廃棄のような状態でした。スカルベックの邸宅すらも跡かたもなく、何処がショパンの生家の跡なのかも疑わしい、土塀のような小屋がわすが白黒写真に残されているだけでした。その後、ポーランドのショパン協会により土地は買い取られ、ショパンの生家のイメージは改装を重ねながら作られて来ました。
どちらにせよ、納屋でショパンは生まれたことになっていますが、言い伝えなのか想像なのか、ショパンが床板のない納屋の土間で生まれたとは衝撃的な言い伝えなのです。それは、キリストが納屋で生まれた物語を思い起こさせます。
ショパンは出生の秘密が多々あり正確な確証はなく真実はベールに包まれている。また、ショパンの国籍はポーランドでショパンの人種は、ポーランド人として知られていますが、父親のフランス人の血が混じっていると言われて来ましたが。しかし、祖父がユダヤ人と推測でき父親はフランスの田舎に住んでいたユダヤ人、ユダヤ系フランス人と仮定できます。
ショパン自身も自分をユダヤ人と言っていたほどでした。また、ショパンのマズルカはシャファルニャ村のユダヤ人に伝わる歌からのパクリであったとは衝撃的な事実である。
「小さなユダヤ人」は「ユダヤ人街」と言う意味で、ある国の中にある一定の人種が集まっているコミニュティと言うことなのだ。
マズルカは短い曲が多いが58曲にも上り、
姉がマズルカを作曲していたことがあり、
ショパンは姉を「ルドヴィカのマズルカは天才的だ」と言っていた。
それを踏まえると、作曲を分業していた可能性も充分あり得るのだ。
また、ショパンの父親はポーランドに溶け込むためにユダヤ教からキリスト教に改宗していた。
そのため、ショパンもカトリック教徒であり、ショパンは生涯を通して、いつも教会へ行き聖母マリア像を鑑賞し祈りを捧げていました。ショパンは聖母マリアの絵画を鑑賞するのが好きでした。ショパンは聖書を読破し全て暗記していた程の敬虔な信者であり
記憶力が人並み以上であった。人生の終わりには「自分は聖書を全て覚えていて、
解っているのだ」と病床のショパンは言った。また、少年時代には
「マズルカは直ぐに書けるさ、僕はユダヤ人だからだ」と自負していたこともあった。
マズルカのベースになったのは、シャファルニャ村の娘が歌う民謡だった、ショパンは何度も歌うのを嫌がる娘にお金をちらつかせ無理矢理に歌わせた。そして、その曲を直ぐに自分が作曲した曲として村の宴会でピアノを弾いて披露したのだ。
「坊や、マズルカをもっとたくさん作ったら金になり一生それで食っていけるぞ」と謎の牛飼いの老人にそそのかされ、ショパンはそこで、これは悪い動機なのだと気づいたのです。しかし、ショパンはその後も、まるで牛飼いの老人の魔法にかけられたかのように一生マズルカを罪悪感に苛まれながら書き続けなければならないことになりました。そしてショパンは牛飼いの老人が言ったようには金持ちにはなれなかった。ショパンはシャファルニャ村の娘への罪悪感を隠していたが、
忘れることは出来なかったのです。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです