フレデリック・ショパン、ショパン少年がシャファルニャに行っていたもう一つの理由とは、、貴族のヤン・ビアウォブウォッキからも作曲と絵画を学んでいた…。

フレデリック・ショパンは16歳の頃、親友の
ヤン・ネプオツェン・ビアウォブウォッキ
と文通を頻繁にしていた。
書簡の内容はショパン自身の作品の話しや学校生活の事やショパン自身の音楽への悩みや本心をビアウォブウォッキに打ち明けていた。彼は1806年頃に生まれショパンより4歳年上だったが、彼は1828年3月31日、ショパンが18歳の時に結核で亡くなってしまう。
ショパンは15歳から17歳の間に多くの書簡のやり取りをしたが、その中で限られた数の書簡しか現存しない。1826年ショパンが16歳の頃のことに注目してみた。
ショパンはビアウォブウォッキをヤショォと愛称で呼んで書簡を書いていた。
「ワルシャワの白夜祭の2日目(聖霊降臨祭のこと、推測)
親愛なるヤショォへ
返事がこんなに遅くなり、本当に申し訳ありません。
私の身辺には切っても切れない様々な事情があり、あなたも同じような経験をされているので、今年の私の状態は想像がつくと思います。
今年の私の状態は、少し前にあなたが同じような目に遭われたので、想像がつくと思います。
しかし、私の身辺にある様々な事情により、私が長い間望んでいたことを実行することができません。」ショパンはワルシャワ高校の卒業のための作曲の準備に奔走していた、4歳年上のビアウォブウォッキは3年前に自分と同じように卒業試験のための作品を書くことに
追われていたことを自分も体験中のショパンは先輩ビアウォブウォッキに共感を示した。
「私はあなたに頼まれた用事をいくつかこなし、あなたにいくつかの楽譜を買いました。
私の趣味からすれば、あなたのように家に一人でいる人に喜びを与えるであろう音楽の楽譜も買いました。」
ビアウォブウォッキはショパンに幾つかの楽譜を入手すること、そしてショパンが卒業のために書いている未完成かもしれない作品を送ってくるように指示していた。
ショパンは楽譜を父ニコラスに入手してもらっていた。ニコラスはポーランドの楽譜印刷業者のニコラス・ナタニエウ・グリュックスバーグから楽譜を入手していた。
この時代は楽譜は直ぐに買えるものではなかった。楽譜は期間限定で貸出であった。
「グライクスベルク(音楽商)については
パパが自分で行ってきました。残念なことに、彼は一ヶ月未満の予約は受け付けないとのこと。まだカタログもないので、
一度に数曲しか貸せない。それなら
それで何とかなったかもしれないが、彼の料金は月に1ターラーもするのです。
最悪なのは、カタログがないので、どの作品を選べばいいのか分からないことだ。」
楽譜の目録もないため、どの作品の楽譜が貸してもらえるかすら選ぶことも出来なかったことがショパンの言葉から伺える。
しかし、楽譜は借りずに、ニコラスは楽譜を買う運びにユダヤ人のグライクスベルク(音楽商)と交渉の結果なった。
「楽譜は買ったが、まだヴィソッキに渡していない。」
ヴィソッキもショパンと同級生のポーランド人の作曲を学ぶ学生と推測される。
父ニコラスがフレデリックに買い与えた楽譜はディアベッリの10のオペラ変奏曲と推測される。
「曲目はあくまでも[エウテルペ]です。
ディアベッリがウィーンでピアノ用に書き下ろしたもので、ロッシーニの旋律やその他の断片を集めたもので声楽曲のようなものです。また、カチコフスキーのポロネーズも買いました。これは君のなまった指をほぐすのにもいいと思います。
それに加えて、あなたのご希望どおり、私自身のつまらないものを少々送ります。」
ショパンはディアベッリの声楽曲のような作品とカチコフスキーのポロネーズと、自分の
作品をつまらないと書き加えて、ビアウォブウォッキに送った。ショパンはつまらない作品と書いているが何の作品だったかは不明とされながらも、既に出版されていたロンドハ短調作品1をビアウォブウォッキに送ったと推測される。つまり、つまらないはショパン特有の謙遜でショパン少年の自信作であったのだ。
「私は必ずや今週はウィソッキーにたくさん作曲をやらせるつもりだ . . [地元の些細な事柄(祭り)の後ショパンは自分の音楽的な生活と経験に戻る] ... 私はかなり頻繁に
私が話したピアニストのレンビェリンスキを聴きました。あなたは信じないでしょうが、
レンビェリンスキは信じられないほど素晴らしい演奏をするのです。彼は数日前、私に会いに来てくれました。
とても嬉しかったよ . . . 先週の日曜日、私は
ザモイスキー家に行ったのですが、ほとんど一晩中、ドゥルゴシュの『エオリパンタリオン』を鑑賞するために、ほとんど一晩を費やした。そして、私の音楽の楽譜のための書棚を手に入れました。
ついに、私のブーツは穴だらけになってしまい、靴を履いて出かけなければならなくなった。. .」ショパンは14歳と15歳の夏に行っていた、シャファルニャ村のジェヴァノフスキ家から5km程離れたソコウォーヴォ村にある
ヤン・ビアウォブウォッキの実家であるビアウォブウォッキ貴族の邸宅を行ったり来たりしていた。ソコウォーヴォ村はビアウォブウォッキ貴族の領地であった。
‐続く。‐

 
ポーランド の紋章、ビアウォブウォッキ貴族の紋章
赤い模様は、肩を下にした馬蹄形を表し、金色は騎兵の十字架を表し、その上に銀色 の矢印が示されている。
戴冠させた兜の上の宝石には3つのダチョウの羽が表されている。
紋章は、模様の石膏と宝石の羽の数の点で貴族の地位が異なる。

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ヤン・ネプオツェン・ビアウォブウォッキ
ショパンの幼なじみ。 ポーランドの作曲家フレデリックショパンと書簡をやり取りした。
貴族の家族に生まれたビアウォブウォッキは、1816年にワルシャワ高原で学んだ。
彼はショパンの父親であるニコラスの教え子だった。ショパンの父ニコラスが雇われ大屋だったワルシャワ高校の寄宿舎に住んでた。
ビアウォブウォッキはショパンと同じヴォイチェフ・ジヴニーに作曲とピアノを学び、ワルシャワ大学では絵画理論を学びアントニオ・ロゴジンスキから絵を学んだ。ショパンはビアウォブウォッキ家へ頻繁に行ってヤン・ビアウォブウォッキから絵を学んでいた。ビアウォブウォッキは芸術の才能に恵まれていたが、1828年骨結核で亡くなった。

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ジャン・グリュックスベルク
(1793年‐ 1859年4月24日、29日ワルシャワ、ユダヤ人墓地)
ポーランドの書店とユダヤ人印刷者
ヘブライ語とポーランド語の本、カレンダー、雑誌出版、ポーランドの 出版社、印刷業者、公人。
彼は父がエマニュエル・マジャーと母はテーメラの息子として生まれた。
彼には3人の兄と1人の弟がいた。ルーウィンはポーランドの出版業者で18世紀に生まれ、1804年に亡くなった。(1780-1831、本屋と出版社)、ミカウ(1785年‐1839年以前に亡くなった葬儀の執筆者) )とヨゼフ(1796年‐19世紀に亡くなった本屋)がいた。
1834年に彼はワルシャワに本屋を開業した。翌年、印刷所を開き、1838年からは、彼はワルシャワの学校の図書館にロシアの本を提供した。彼は公共の読書室を組織した。彼は最初のポーランドのイラスト雑誌と政府の版画を出版した。彼は同化の支持者であり、ワルシャワの旧ユダヤ人病院のケア評議会のメンバーとなり、11月蜂起の間、彼は首都ワルシャワの国民議会のメンバーだった。1855年ワルシャワ市の市民権を受け取った。彼はポーランド王国最高裁判所の事務の擁護者だった。彼は若い頃から、ポーランド王国の宗教教育省(委員会)から、控訴裁判所、最高裁判所で離婚事件に関与することを任命され8年間勤めた。
彼はワルシャワのオコポワ通りにあるユダヤ人墓地に埋葬された。

ニコラス・ナタニエウ・グリュックスバーグは、(1780年にドイツまたはポズナンで生まれ、 1831年3月3日 にワルシャワで亡くなりました)-ポーランドの書店、印刷業者、ユダヤ人起源の本、カレンダー、雑誌の出版社、フリーメーソンも発見しました。
グリュックスベルク家の祖先-ポーランド文化の功績のある書店と印刷業者


1789年頃– 1829年1月2日タボル(現在チェコ共和国)で生まれたヴァイオリニスト、作曲家、教師がワルシャワで亡くなりました。

ヨアヒム・カチュコフスキ( 1789年頃タボル‐チェコ共和国)‐1829年1月2日 ワルシャワ)ポーランドの作曲家、ヴァイオリニスト、教師。
カチュコフスキは1810年から1825年までワルシャワに住み、その後、ドイツに移り住む。代表作は、2つのヴァイオリン協奏曲、2つと3つの楽器のための室内楽、弦楽四重奏のためのバリエーション。多くのピアノ独奏曲のポロネーズを作曲した。
ショパンの父ニコラスは彼のポロネーズ作品を出版社グリクスベルクから買い上げ、息子フレデリック・ショパンに与えた。それを基にショパンは作曲した。更に、文通相手だった友人のヤン・ビアウォブウォッキビに
カチュコフスキのポロネーズ とショパンが書いた作品を送り、ショパンより9歳年上だったポーランドの作曲家ヴィソツキに渡してもらうように促した。
カチュコフスキの作品
6つのポロネーズ、ヴァイオリンアヴェック伴奏を2番目のヴァイオリンに注ぐ
ヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲イ短調Op8
ヴァイオリンとピアノのためのロンド
ヴァイオリンとヴィオラのための変奏曲
ドゥーヴァイオリンのためのデュオ、op.16
ヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲ロ短調op.17
弦楽四重奏のための4つのポロネーズメランコリック
ディアベリアによる10のオペラ変奏曲

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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