ディレクターズカット ショパン 《出版滞りキュスティヌの邸宅へ》

ショパンはドイツの出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルとの交渉にプロブストが当てにならなくなり決裂しそうになっていたためショパンは自ら値段の交渉に乗り出したが、それでも出版社ブライトコプフからの返事がなかった。ショパンはイライラしていたショパンは次なる手段に出た。
イタリアの作曲家パチーニが出版した楽譜、ショパンの≪ワルツ作品42変イ長調≫が収録されている「百一曲集」のゲラ刷りをブライトコプフ社に送りつけることで、自分の1曲500フランが決して高くないという透明性をアピールしたのだった。
恐らく全く買う気がなかったブライトコプフ社にしてみれば、ショパンのこの行為は「失礼な」と受け取った可能性があった。それが1840年の6月のことであった。
ショパンは作品の売却の交渉が上手く進まず、サンドの負債もあり、ふたりの間はお金のことで険悪になりつつあった。
結局ショパンはパリで苦いスタートを切ったのであった。しかし、ショパンは貧乏の反面、
作品はたくさん生まれた年であった。
収入がないショパンは、とうとう夏のノアンもサンドと行くことは諦め、
困ったときは無条件でショパンを助けてきてくれた、あのド・キュスティヌ侯爵の住むサン=グラティアン のお城へ赴いたのであった。
ショパンに恋愛は身体の毒だから自分とは友達として助け合っていきましょうと、ショパンを崇拝しショパンへの金銭的援助をすることをキュスティヌは申し出ていた。
ショパンは出掛けに手紙を投函することがよくあった。
それを計算すると、ド・キュスティヌの邸宅にこの時、ショパンは10日間程いたことになる。
ショパンはいつもお金に困っていたのでド・キュスティヌと過ごす時間をお金に換算していたのであろう。
ド・キュスティヌにしてみれば、ショパンを独占して自分だけのために演奏をしてもらうことは最高の贅沢であった。
ショパンが帰った直後にド・キュスティヌ侯爵はショパンに対する敬意をいつものように手紙で打ちあけた。
「あなたは私が褒める言葉に慣れていますが、それは私の真実の声です。
あなたにこの私の想いを話さないで眠ることは出来ませんでした。
私はあなたを再発見しました。それは私の胸に残る情熱的な記憶、あなたの演奏は完璧で、今まで以上に成長していました。あなたが私にもたらした驚くべき影響の原因でした。
若者のこの成熟はさらに崇高であり、天才の力に時間は助けられていました。
それは芸術の完全さである・・・・」相変わらずのド・キュスティヌ侯爵であった。
これに対して、ショパンはド・キュスティヌ侯爵の手紙に返事を書いたかは不明である。
しかしながら、ショパンはこの時、またド・キュスティヌ侯爵に金銭的に助けられ、姑のような高圧的な(サンド自他ともに認める)監視下から逃れ、しばしの間静養が出来たのであった。
ド・キュスティヌ侯爵は良い人であったがパリで同性愛者というレッテルを貼られて以来,
男性だけの貴族の集まりの場に出入り禁止のうえサロンにも出入りできなかった。
ド・キュスティヌ侯爵は広い邸宅で孤独であったのだった。
(ブログ2019.2.23 と2919.3.8にド・キュスティヌ侯爵に関する記事掲載)

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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