フレデリック・ショパン🇵🇱 ワルシャワ劇場での歌手の実態と封印されたフレデリックの作品とは…

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フレデリックは、ポーランド東部、ルブリン県トマシュフ・ルベルスキ郡内のグミナ・テラティン村のポトゥルジンに居る親友でありパトロンのティティウスへワルシャワ劇場で上演されているオペラについての感想や自身の作品について報告した。
「まず、コッリとトゥーサン夫人は数週間前にセビリアの理髪師を歌いました。
たまたまその時、私はコスタスと二人でサンニキからワルシャワに数日間滞在していました。私は、彼らがイタリア語で歌った第1幕だけを観たかったです。どちらにせよ1幕しか上演されなかったのです。
しかし、もしトゥーサン夫人が出演していなかったら、私はコッリを許せなかっただろうと思う。彼の演技はイタリアの低俗なコメディアンのように振る舞いで、音程を恐ろしいほど外して歌ったのです。一度だけ、舞台から駆け下りて倒れた場面があった。これ以上、あなたに感想を言う必要がないであろうと思います。
このコッリという男が、短いズボンをはき、ギターを持ち、丸くて白い帽子をかぶって、床に倒れているところを想像してみたまえ! . 悍ましい!!. .」
作品については特に触れていないフレデリックだが、歌手の演技力にはうるさいフレデリックであった。

次に、自分の作品についてフレデリックは
書いた。
「それから、私はサンニキにいる間に、あのハ長調のロンド(あなたは覚えているかな?最後の曲です。)を2台ピアノ用に編曲し直しました。
ブッフホルツのサロンでエルネマンと試演したんだ。なかなかうまくいったよ。いつかクラブで演奏しようと考えている。」
後にも先にも、ショパンの二台ピアノ用の編曲版はこの作品のみとなった。
これはエルネマン教授から二台に編曲するようにとの勧めから書いたものであった。
「私の新しい作曲については、あなたがワルシャワを発った直後に始めた未完成のト短調の三重奏曲以外は今は何もないのです。
アントニ・ラジヴィル王子(ポズナン帝国諸侯) はアマチュアの作曲家で、『ファウスト』を初めて音楽化し人です。
最初のアレグロは、サンニキに行く前に他の楽器と試した。
トリオは、私のソナタと変奏曲と同じ運命をたどるだろう。
第1番はご存知のようにアイズナーに捧げ、第2番には大胆すぎるかもしれないが、あなたの名前を記しました。
私の愛情がそうさせたのであり、あなたがそれを悪く受け取らないと私は信じているのです。」
フレデリックは真の友情の証としてティティウスに献呈したのだ。

「スカルベクはまだワルシャワに戻っていないです。
ジェンドルジェヴィッチはパリに1年間滞在しています。
そこで出会ったピアニストのソフムスキは、ワルシャワに来る前に私と文通したいと短い手紙をくれました。
フェティス氏が発行している『ルヴィウ・ミュジカル』の助手である彼は、ポーランドの音楽事情や、ポーランドの有名な音楽家たちの経歴などについて、何かニュースがあればとても嬉しいと私に書いてきたのです。
私には関係ないことなので、ベルリンから彼に、そのようなことは私が扱うことではないし、実際、ここワルシャワのクルピンスキー2世は、音楽家としての活動を一部始めているがこの問題に取り組み始めている。
それに、私の意見はまだパリの新聞にはふさわしくないからです。
私は今のところ、私たちのオペラより良いオペラも悪いオペラも聴いたことがないのです。
私自身にどんな迷惑をかけることか!
今、クルピンスキーはクラクフにいて、ジリンスキーがオペラを担当している。

昨日の『魔弾の射手』は衝撃的なほどひどい出来だった。合唱団は4分の1拍遅れて入ってきた。
パパに言わせると、私は海外の状況について持っている高い評価を失うだろうとのことだ。」
魔弾の射手の出来栄えも酷かったと言うフレデリックは父ニコラにこれから旅に行くウィーンやパリなどでワルシャワで聴いた歌手の実態を語ることを禁じられた。
「今月末にはベルリンを発つ予定なので、1ヵ月後にははっきりわかるだろう。
馬車で5日間!万が一病気になったら、臨時バスで帰国します。
もちろんお知らせします。他の重要な事柄の中で、アルブレヒトが亡くなったことを言い忘れていました。
私たちはいつも通り過ごしています。」



「古き良きジウニーは、私たちのエンターテイメントの命であり、魂である。
私は今年、パパと一緒に馬車でウィーンに行くことになっていたし、間違いなく行くはずだった。パパは夏の間ずっと家にいた。
あなたは、一言でも半言でも、あるいは一文字でもいいから、私に書簡を書いてください。
くだらないことを書くのをお許しください。もう一度、さようなら。」
フレデリックはティティウスからの返事を
待ち望むと締めくくり書簡を終えた。
ピアノ三重奏曲ト短調作品8、1828年
魔弾の射手
カール・マリア・フォン・ウェーバー作曲
『魔弾の射手』作品77, J. 277
全3幕のオペラ作品
初演1821年6月18日ベルリンの王立劇場
ロンド ハ長調 作品73
フレデリック・ショパン
1828年作曲。
フレデリックが18歳の時に案じたように生前に出版されなかった。
遺作とされているがフレデリック青年が18歳の時に書いた意欲作であった。ショパンは
貴族の社交界で披露することを画策していたが死後の1855年に出版された。
フレデリックは初めに夏のサンニキでピアノ独奏版を書き上げ、その後ワルシャワで
ワルシャワ音楽院の教授に1825年に就任したモーリッツ・エルネマンに二台ピアノ用に編曲するように勧められて、フレデリックは
二台ピアノ版を編曲した。その時のことを
「ブッフホルツのサロンでエルネマンと試演したんだ。なかなかうまくいったよ。いつかクラブで演奏しようと考えている。」
クラブとは貴族の男性のみが出入りが許される社交界のサロンのことである。
ブッフホルツはワルシャワのピアノ制作者でフレデリックは彼のサロンを頻繁に訪ねていた。ショパン家にもブッフホルツのピアノがあったが後に焼失する運命を辿る。


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