フレデリック・ショ!パン、一役も二役も買ったフレデリックの初の公開演奏会、開拓者フレデリック・ショパン…

🎶ポーランド🇵🇱ワルシャワ国立劇場
とフレデリック・ショパン🎶
フレデリック・ショパンが初めてとワルシャワ国立劇場でのコンサートに出演した時のポスター 1830年1830年3月17日水曜日
1830年推定年齢20歳(21歳)を迎えたフレデリックは、初めての公開演奏会に出演した。演奏会はワルシャワのナロドーヴィ劇場で、複数の出演者により1830年3月17日水曜日に行われた。
フレデリックは推定13歳の時にフィールドのピアノ協奏曲第5番とフンメルのピアノのための協奏曲で演奏会に出演しているが当時の評論には15歳と記されていてる。ワルシャワの公共の場での出演はこの時が初めてであった。
フレデリックはいずれもブッフホルツのグランドピアノを使用した。
このナロドーヴィ劇場での公開デビューの時のことを、親友ティトゥスに自分の心の内と詳しい経緯を報告したフレデリックである。
「この瞬間ほど、あなたの不在を感じたことはありません。あなたはここにおらず、私には気持ちを打ち明けられる人がいません。
でも、翌週の月曜日に行われた第2回コンサートの準備で頭がいっぱいで、気が散ってしまい、いざ書こうとすると考えがまとまらなかった。
今日も同じような状態だが、冷静に考えられるようになるまで待てないのだ。
さて、私の最初のコンサートは、3日前に完売し、ボックス席も座席もなかったにもかかわらず、私が思っていたような印象を一般聴衆に与えることはなかった。私の協奏曲の最初のアレグロは、拍手喝采を浴びた、
 しかし、人々は興味を示し(「ああ、新しいものだ!」)、目利きのふりをしなければならないと感じたようだ。アダージョとロンドが最も効果的で、心からの賞賛の声が聞こえた。しかし、ポーランド風のポプリ[作品13として出版]は、その目的を完全に達成したとは言えないと私は思う。
彼らが拍手したのは、退屈しなかったことを最後に示さなければならないと思ったからだ。」
天才フレデリックは聴衆の反応が手に取るようわかるのだ。天才のみが持つ能力で演奏しながらも聴衆の反応や聴く者の音楽レベルを判定してしまうフレデリックはワルシャワ一般市民は聴いているふりだけで、実はまるでわかっていないと見極めた。
当時フレデリックの斬新な協奏曲は第一楽章でまずは拍手喝采を浴びた。
この演奏会のプログラムは、フレデリックが
1楽章を演奏した後に、カロル・ゲルネル氏の作品[ホルンのためのディヴェルティメント](テアトルナロドーヴィ管弦楽団のホルン奏者)がカロル・ゲルネル氏により演奏された。そのため、フレデリックの協奏曲は第一楽章で拍手喝采を浴びたのである。
しかし、それは、フレデリックにすれば、
知ったかぶりをする聴衆の見栄または、まだ若い無名演奏家フレデリックへのお世辞のサービスに感じとっていた。
そして、ホルンの演奏の間、フレデリックは休憩することができた。
その後、二楽章と3楽章を演奏したフレデリックは確かな手答えを感じた。
聴衆の心を打った二楽章の後、三楽章のフィナーレでは目まぐるし移り変わるマズルカのリズムや光景に聴衆の民族意識が更に高揚し、フレデリックの作品と卓越した演奏で、ワルシャワ市民に受け入れられ大成功したのであった。
「✳︎クルピンスキーはその夜、私の協奏曲に新鮮な美しさを発見した。
しかし、✳︎ウィマンは、私の最初のアレグロが聴いている人たちは何も理解していないことを再び指摘した。✳︎エルネマンは完全に満足したが、
✳︎エルスネルは、私のピアノの音色が毛羽立ちすぎていて、低音のパッセージが聴こえないことを残念がった。」
ワルシャワのオペラ指揮者であり作曲家のクルピンスキーはフレデリックの作品に新しい息吹を感じた、ワルシャワ音楽院の教師のウィマンは第一楽章が市民に理解されていないと指摘し、同じくワルシャワ音楽院の教師エルネマンはフレデリックの作品に満足したが、ショパンの作曲の師であるエルスネルはその日使用したブッフホルツピアノの楽器の性能に欠点があることを指摘した。
 更にフレデリックはティトゥスに語った。「ワルシャワのカフェ "シンデレラの店 "で、私の演奏について不平不満を言った人々の私について繰り広げられた議論を私も聞いてみたかったものだ。だから、モナッキが、ポーランドの『クーリエ』紙上で、私を大絶賛してくれたのだ。
特にアダージョのことを褒めちぎった後、もっとエネルギーを発揮するようにとアドバイスしている。
私は、そのエネルギーがどこから来るべきかを慎重に検討し、2回目の演奏会では、自分のピアノではなく、ウィーンの楽器で演奏した。ロシアの将軍ディアコフは親切にも、あのフンメルよりも良いピアノを貸してくれたのだよ。
聴衆はすぐに拍手し、一音一音が小さな真珠のように響くことを喜び、最初の演奏会よりもうまく弾けたと褒めてくれた。」
ワルシャワ市民はカフェに集まり議論を闘わせることが日常的にあった。
モナッキはフレデリックの演奏に感銘したことを好意的に書いた。
2回目の演奏会が実現し、ロシアの将軍ディアコフの計らいにより、低音の鳴りがぼんやりとして正気のないブッフホルツのピアノを却下してウィーン製の素晴らしいピアノ(正確な製造銘柄は不明)でフンメル氏よりも良い条件でピアノ演奏ができたフレデリックであった。
「最後に私が前に出たとき、3回目のコンサートを求める声が上がった。
✳︎クラコヴィアクのロンドは大きな反響を呼び、4回の拍手が起こった。」
二回目の演奏会
ではロンド・ア・ラ・クラコヴィアク作品14
を演奏したフレデリックは、1回目の時よりもより性能の良いウィーン製ピアノを使用し更にフレデリックの才能が発揮され大成功を収めた。
アンコールでは、3回目のコンサートを求める喝采を浴びたフレデリックであった。
「今日、拍手喝采だった。クルピンスキーは、私がウィーンの楽器で✳︎幻想曲を演奏しなかったことを残念がっていた。」
当時《ポプリ》とフレデリックが名付けていた=《ポーランド民謡による大幻想曲作品13》のことだ。
[翌日、グルジ・マラも同じ意見をポーランドのクーリエ紙でより強く述べている。
エルスネルの見解では、私は2回目のコンサートの後でなければ正しく評価されないという。」
この、、グルジ・マラという評論家は実は
モナッキ氏のことである。モナッキはペンネームの別名でフレデリックの評論があたかも複数人あるかのように書いていた。フレデリックはそれを承知していた。
「しかし、率直に言って、私自身は自分のピアノで演奏したかった。一般的な感覚では、私が使った楽器の方がホールに合っていたようだ。」フレデリックは、煌びやかに鳴る、ロシア将軍のお気に入りピアノよりも、ブッフホルツの自分の自宅にあるピアノが気に入っていた。
自宅のブッフホルツピアノは、フレデリックがブッフホルツの工房に通い詰め改良を重ねたイギリス式構造を持つピアノだった。それはフレデリックの試演を重ねて製作されたピアノであったからだ。しかしながら、この演奏会の反響でピアノは比較されブッフホルツピアノは更に改良を重ねるきっかけとなった。そして、プログラムについてフレデリックは説明した。
「第1回目のプログラムがどのようにアレンジされたかはご存じだろう。
第2回目は、ノヴァコフスキーの交響曲(作曲家への賛辞として)で始まり、それから
そして協奏曲の第1楽章、アレグロから始まった、次に
✳︎ビエロフスキがベリオの変奏曲を弾き、」
(✳︎シャルル=オーギュスト・ド・ベリオ
作曲家1802−1870ベルギーのヴァイオリニスト)
「そして続いて、私のアダージョとロンドが演奏された。」
一回目と同じく、フレデリックの協奏曲の一楽章の前にノヴァコフスキーの交響曲で始まり、次にフレデリックの1楽章、次に、
ベリオの変奏曲、このようにフレデリックの一楽章はサンドイッチされる形になる。
そして、二楽章、三楽章、と続いた。
休憩を挟み、
「後半は、✳︎クラコ・ウィアークのロンドから始まった。」✳︎ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク作品14
「そしてマイヤー女史がソリーヴァの《ヘレンとマルヴ》を歌い最高の出来栄えであった。」
このようにフレデリックの初のワルシャワ国立劇場の登場はワルシャワで話題となり、フレデリックの協奏曲の初演はワルシャワ市民にとってポーランド人の民族意識の連帯感の高まりであり、ワルシャワ音楽院のエルスネルをはじめとする教員やワルシャワの一流音楽家にとっては新しい息吹の発見であり、更にはグランドピアノという楽器の性能の比較改良の試演にひと役もふた役も買った開拓者フレデリック・ショパンであった。
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✳︎ヴィネン・ミコワイ・プルデント
1788−1848
フランス系音楽家 ナロドーヴィ劇場管弦楽団ファゴット奏者
ワルシャワ大学教員

✳︎エルネマンとは、ワルシャワ音楽院の教師でありフレデリック・ショパンの指導者だった。
1828年には、ショパンは、
ロンドハ長調 サンニキで、
二台ピアノ用にエルネマンに書き直しを
命ぜられた可能性があり、ブホルツのピアノ製作工房でエルネマンと二台ピアノの試演をした。出来栄えに満足したフレデリックは、
いつかレスルサで演奏したいと抱負を
ティトゥスに明かした。しかし、エルネマンとの二台ピアノのワルシャワでの公開演奏会は実現しなかった。

✳︎モーリッツ・エルネマン
(1798 年3 月 15 日 アイスレーベン−1866 年8 月 4 日ブレスラウ生まれ) 
ドイツの作曲家、音楽教師、ブレスラウの 音楽監督、

モーリッツ・エルネマンはピアノをルートヴィヒ・ベルガーとカール・フリードリッヒ・ツェルターに習った。彼はベルリンの音楽教師であり、ワルシャワ音楽院で教師だった。生徒だったフレデリック・ショパンに頻繁に助言をしていた。
 1840年からは、ブレスラウに移り1866年8月4日に亡くなりました。

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参考動画
ユゼフ・クサヴェルィ・エルスネル作曲
2つのポロネーズ 

✳︎ユゼフ・クサヴェルィ・エルスネル
(1769年6月1日 - 1854年4月18日)
国籍ドイツ
彼はポーランドのグロドクフのドイツ人入植者の地区で生まれワルシャワ市民になるためにポーランドに移住した。ワルシャワ音楽院の作曲の教師になり、フレデリック・ショパンの才能を認めました。彼ははユダヤ系ドイツ人でした。(ドイツ語ではヨーゼフ・クサーヴァー・エルスナー)
↑↑
フィールド
ピアノ協奏曲第5番

✳︎フレデリック•ショパンの夜想曲そして協奏曲はフレデリックの憧れだったフィールドが元となって作曲されていると言われている。
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ピアノ:サンソン•フランソワ
ショパンピアノ協奏曲2番
フランス国立交響楽団
1958年録音

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フンメル ピアノ協奏曲第3番ロ短調 作品89
ピアノ:スティーヴン・ハフ
 (1961年11月22日 −)
イギリス出身オーストラリア在住
二重国籍
ピアニスト・作曲家・作家
二重国籍

曲目:ヨハン・ネポムク・フンメル(1778年11月14日 - - 10月17日)作曲
   ピアノ協奏曲第3番ロ短調 作品89
   イギリス室内管弦楽団 
   ブライデン・トムソン(指揮)

1819年作曲
1821年ライプツィヒにて出版
フンメルは古典様式からロマン派の先駆けとなった。メンデルスゾーンやショパンに影響を与えた。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
✳︎カロル・カジミエシュ・クルピンスキー(1785年3月6日 ヴウォシャコヴィツェ、ポーランド王国、ポーランド・リトアニア連邦 ポーランド・リトアニア連邦– 1857年9月18日 ワルシャワ、ポーランド王国、ロシア帝国 ロシア帝国 )
ポーランドの作曲家、指揮者、教育者
後期古典主義
ワルシャワ学習友協会会員でした。
カシミール・デラヴィーニュが歌詞による愛国歌『ラ・ヴァルソヴィエンヌ』1834年作曲フレデリック・ショパンの恩師
彼は父親のマルチン・クルピンスキに音楽を習い、叔父のカロル・ワンスキは教区司祭だったため、12歳でラヴィチのコニン郡サルノワの教会オルガニストに任命された。1800年、彼は、叔父のチェロ奏者ロホ・ヴァンスキにリヴィウ近郊のフェリックス・ポラノフスキ伯爵の邸宅に連れて行かれ、オーケストラのヴァイオリン奏者になった。
1808 年最初のオペラ『ピグマリオン』を作曲。1810 年からワルシャワに移住し、ユゼフ・エルスネルの任命でワルシャワ・オペラの指揮者に就任し1840年まで務めた。
18彼は 1819 年にポーランド王室礼拝堂の楽長に就任 1820 年に彼はポーランド初の音楽雑誌の創刊編集をした。1823 年に聖スタニスラウス勲章を授与された。
1829年ポーランド国王のためにロシア王ニコライ1世の戴冠式のための作品をユゼフ・エルスネルと共に書くことを当局から命じられる。「テ・デウム」を作曲した。この作品は 2011 年まで上演が禁止されていた。
彼はロマン主義者であり、1828 年からフレデリック・ショパンに敬愛されていた。1857 年 9 月 18 日にワルシャワで亡くなる。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
マウリツィ・モフナツキの評論の一部
クリエル・ポルスキ
1830年3月18日
「フレデリック・ショパン君は、17日、ナロドーヴィ劇場にて、ワルシャワの一流音楽家の諸先生方々により天才と認められていたことを詰めかけた聴衆に証明した。
他ならぬ天才と才能…
割愛
二楽章アダージョでは心惹きつけられる響きで正気の失ったピアノに魂を与え甦らせた者はいないであろう。…
割愛」

ポーランド ワルシャワ市ワジェンキ公園内モーリシー・モチナツキの胸像

✳︎モーリシー・モシュナツキ
( 1803年9月13日ボジャニエツ−1834年12月20日オセール) 
 ピアニスト、ポーランド活動家、政治広報者、哲学者、ポーランド・ロマン主義、
彼は11 月蜂起に参加した。
1830 年1831 年には『ポーランド民族の蜂起』として記録を残した。
自由ポーランド連合、愛国協会の会員。
彼はボジャニエツ-ウクライナ、リヴィウ州のジュウキエフ地区にある村に生まれた。
1834年12月20日, フランス オーセールで亡くなった。
ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章
2021年11月27日, ポーランド ワルシャワ に埋葬された。彼は ワルシャワ大学で学びフレデリック・ショパンと親交があった。
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フィールドについて、
~フレデリック・ショパンがワルシャワの頃からのあこがれだったジョン・フィールド~
2019.11.27 03:43 掲載。

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