関連記事2019.06.13 09:48
F.CHOPIN、ノアンとパリ、そしてドラクロアとの友情から、
6月のノアン「ここは楽しい場所です。」の
記事でダンテをもしたショパンについて、
〜なぜドラクロアはショパンをダンテに見立て描いたのか…〜
少年時代のダンテの記録は乏しい。
見習い修道士であったとも言われている。
または、没落貴族の子弟として祖だったなど、諸説がある。
生年月日は、詩文からの推定。
ベアトリーチェ (Beatrice Portinari)
ダンテはダンテは9歳の時、同い年の少女ベアトリーチェ・ポルティナーリに出会い、魂を奪われました。
そして、
18歳になったダンテとベアトリーチェは、サンタ・トリニタ橋のたもとで再会する。
二人の間にさしたる交流もないまま、ベアトリーチェは、銀行家に嫁ぎ、数人の子供をもうけて1290年に24歳で病死しました。
ダンテは狂乱状態に陥り、生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを誓い、生涯をかけて『神曲』三篇を執筆し、この中でベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女としました。そして、
フィレンツェ追放
ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の勢力が対立し、各自治都市はグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)に分かれて、反目しあっていました。フィレンツェはグェルフィ党に属し、ダンテもグェルフィ党員としてフィレンツェの市政に参加。
グェルフィ党は内部対立から真っ二つに割れ。フィレンツェの自立政策を掲げる富裕市民層から成る「白党」と、教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持の「黒党」に分裂、
小貴族の家柄であるダンテは白党に所属し、百人委員会などの要職に就くようになりました。
最高行政機関プリオラートを構成する三人の統領(プリオーレ)が選出され、ダンテもこの一人に任命されました。
1301年黒党が政変を起こし、フィレンツェは黒党の勢力下となり、
ダンテは教皇庁へ特使として派遣、フィレンツェ市外にいた。幹部が追放された、
ダンテも欠席裁判で教皇への叛逆や公金横領の罪に問われ、市外追放と罰金の刑を宣告された。黒党から永久追放の宣告を受け、再びフィレンツェに足を踏み入れれば焚刑に処されることとなった。
流浪の生活が始まり、ダンテは二度と故郷フィレンツェに足を踏み入れることはなかった。
追放されたダンテは、各都市を流浪し、ダンテにとって非常に辛い
「他人のパンのいかに苦いかを知るだろう」。
ダンテは『神曲』『饗宴』『俗語論』『帝政論』などを著していった。
神曲
『神曲』においては、ベアトリーチェに対する神格化の崇敬な賛美、自分を追放した黒党および腐敗したフィレンツェへの痛罵、そして理想の帝政理念、「三位一体」の神学までもが込められて、
ダンテの波乱に満ちた人生の過程と精神的成長をあらわしています。
ベアトリーチェの存在は文学史上に永遠に残ることになった。
死後
ダンテの名声は、生前は亡命地であるラヴェンナのみにとどまる
イタリアでは統一運動とナショナリズムの高揚によって、
ダンテは、現在イタリア国民の最大の精神的代表者としての地位を得る。
さて、
ショパンのダンテをもして絵が画れたドラクロワの習作と天井画は、
ショパンが初めてポーランドで公の場でコンサートに出演した20歳の時、褒美として、ロシアの皇帝の弟のコンスタンティン大公の息子の家庭教師だったモリオル氏の娘さんを通じて、
ロシア皇帝からショパンは月桂冠を受け取ったことがあった。それから12年後1842年までの長い年月の間、ショパンは芸術を飛躍させ
ダンテの生い立ちや生き様を彷彿とさせる生涯として親友ドラクロワはショパンを描いたのでした。
ショパンの芸術は、ポーランドからの出帆いらい辛い状況からさらに高みを望み、現在世界の人々に高い感動を与えていてくれる
ドラクロワは、天井画にショパンの姿を具現化しその姿勢をいまに繋げてくれている。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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