フレデリック・ショパン 大衆のための大劇場か選ばれた人々の貴族社会のサロンか、フレデリックの選択は、将軍邸宅でのフレデリックの夜会計画とは…

フレデリックは1830 3月17日初の公開演奏会の出演を成功させて続く第二回目の演奏会では、ノヴァコウスキの交響曲、フレデリックの協奏曲からアレグロ、ビェラフスキがシャルル・オーギュスト・ベリオの変奏曲、フレデリックのアダージョとロンド、
第二部にフレデリックのロンド・クラコヴィアク(「演奏会用大ロンド『クラコヴィアク』)最後はオペラ歌手のソリヴァがアリアを歌うというプログラムに出演して大成功を収めた。
続く第3回目のコンサートの出演をワルシャワ市民から強く勧められたフレデリックであったが、フレデリックは、一般大衆の為ではなく、上流階級の集まる劇場で自分の作品を披露して試すことを目指していたため、
ワルシャワ劇場で割の合わない出演料で大衆のために3回目のコンサートに出演する気は全くなかった。
二回目のコンサートの反響をティティウスに語ったフレデリック。
「ドブジンスキーは私を怪訝な目で見るのです。なぜなら私が彼の交響曲をプログラムに選ばなかったからです。
そして、ヴォジンスカ夫人は、私が彼女にボックス席を予約しなかったことに激怒していました。」
ヴォジンスカとは後に婚約破棄となる運命の
貴族の家柄を名乗るなヴォジンスカ一家の夫人とその娘マリアのことで、将来はフレデリックの天敵ともなるのである。その、マリアの名の日にプルシャック夫人の招きで
フレデリックはマリアに面会をした。
初めてマリアの名前がティティウスへの書簡に出てきたフレデリックだが、
マリアとはフレデリックの名付け親の
スカルベックの邸宅で、実はフレデリックは幼少期からマリアと既に会っていた。
そして、ティティウスの兄も招かれていた。
その2週間後の3月10日は、フレデリックの妹のエミリアの命日だった。フレデリックは
ポーランドの田舎ポトゥブジン村に帰って
いたティティウス・ウォイチョフスキーへ宛てて書簡をワルシャワから書いた。
「1830年4月10日土曜日(エミリアの命日)
私の親友へ、
先週あなたに手紙を書くつもりだったのですが、時間が経ち何を書きたかったのかわからなくなってしまいました。
私たちの世界は恐ろしいほど忙しいと言わなければなりません。
音楽制作、復活祭期間中も、先週の月曜日も休暇はありません。
フィリペウス氏の家では盛大な夜会があり、そこでソワン夫人が歌いました。
セミラミデ(ロッシーニの歌劇セミラーミデから二重唱《まだ命が惜しいのなら》)の魅力的なデュエットでした。
そして、ロッシーニの歌劇《イタリアのトルコ人》の二重唱をソリヴァとグレッサー氏が歌いました。私は伴奏を任命されました。
このデュエットは好評だったのでアンコールを求められました。
これ以上の詳細は説明する必要はありませんが、
グラドコウスカ夫人があなたのことを私に尋ねました。」グラドコウスカ夫人とはコンスタンチン大公の副官ロシア軍の陸軍大佐フリードリヒ・フィリップスだった可能性が高いと推定されている。
そして、グレッサーもまた、コンスタンチン大公の副官だった可能性が高いと推定されている。
つまりは、フレデリックはコンスタンチン大公の副官でロシア陸軍大佐のフィリペウス邸宅で開催された音楽会に招かれ、歌手の伴奏を務めさせられたのだった。
そして、出演者の歌手とはロシア皇帝の弟コンスタンチン大公の副官を務めていたグレッサー氏などで、ロシア軍に従事していた貴族のメンバーの集いであった。
フレデリックはパトロンのスカルベックの計らいで幼少の頃からコンスタンチン大公に招かれ大公のために演奏を披露させられていた。フレデリックの容姿や演奏や性格はコンスタンチン大公の慰めであり、お気に入りであったからだ。
「現在、ルウィッキの家で夜会を開催する計画が準備されています。」
ルウィッキの家は、ロシア軍人で対ナポレオン軍に参加した将軍ミハイルのことで、ワルシャワ市の軍司令官を1813年に務めていた、
将軍はポーランド人と結婚していたが、この先の、8カ月後の11月蜂起でワルシャワ市民の攻撃対象となり亡くなる運命を辿る。
「とりわけ、ガリツィン公はロードのカルテットを演奏する予定です。彼らは
フンメルのセンチネルをやって、ポロネーズで終わる予定です」
ガリツィン公もまたロシア軍人と推定される、アマチュアの音楽愛好家と言ったところだ。そして、
「チェロのために特別に書かれた序文を追加しました。ユゼフ•カジンスキーと二人で
試してみましたが、うまくいきました。以上が私からの報告です」
こちらはのユゼフはチェロ奏者でアマチュアではない、フレデリックは夜会を盛り上げるためにユゼフとの共演を予定していた。
「私はこのようなサロンに興味があったので、今はジャーナリズムに目を向けます。
そして音楽の目新しいサロンには私に対する好意的な批評が含まれている限り私にとって気になるものです。
ワルシャワの半ページ記事を
お送りしたいと思います。
記事にはエルスネル先生に対する批判が含まれていると言われている。」 
この酷評を書いたのはワルシャワ音楽院のエルスネル教授より16歳歳下の教授クルビンスキであった。
ミハイル・ルウィッキ将軍家での夜会は実行されたか不明だ。貴族社会のサロンで演奏することに慣れ親しんで来たフレデリックはワルシャワ市民の大劇場で演奏することよりも上流階級のサロンで演奏することに興味を持っていたのだ。
ミハイル・ルウィッキ将軍家での夜会は一般市民が見るワルシャワ新聞には公表されなかったが、この計画は必ずフレデリックの
プログラム案で実行されたと推測できる。

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ゴリツィン公爵
(1773年12月19日 - 1844年12月4日)
ロシア帝国の政治家
1803年〜1816年検事総長を務め、1816年〜1824年文部大臣、枢密顧問官(1841年)を務めた。アレクサンドル1世の腹心であり助言を生涯に渡りした。
貴族出身でフランス語を操り啓蒙思想家であった。彼はアレクサンドル大公とコンスタンティヌス ・ロマノフ大公の下、ロシア皇帝になり、アレクサンドル1世の庇護を受ける。
1802年、統治者は彼を上院の検察官に任命され1年後には聖統治会議の検察官に任命される。この役職に就き、ゴリツィンは人生で初めて新約聖書をすべて読み、彼の世界観に大きな変化をもたらした。
キリストの教えに衝撃を受けた彼は、
その真の精神は正教によってではなく、プロテスタントの小さな宗派、主に敬虔主義者によって保存されていると結論付けた。

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです