フレデリック・ショパン、人間の最大の罪は嫉妬、賞賛の裏に陰謀が見え隠れする評論、ショパンを取り巻く最大の罪人は誰か?フレデリックの調査報告は親友ティティウスへ

フレデリックは敬虔なローマカトリック宗派のキリスト教信者でした。キリスト教の教えに七つの大罪がある。人間を罪に導く感情は欲望である。
 罪が1番重い順に、1.嫉妬、2.傲慢、3.怠惰、4.憤怒、5.強欲、6.色欲、7.暴食
である。…
ティティウスはフレデリックの親友であり
金銭的にも精神的にも貧乏なショパン家を支えていたスカルベック家と同様にパトロンのひとりでもあった。そのため、フレデリックはフレデリックが出演したコンサートでの評論事件をティティウスに
正確に理解してもらうために、事細か報告した。
「カジンスキー (チェロ奏者)と試してみたが、うまくいった。これが私のニュースだ。
では、次はジャーナリスティックで音楽的な新事実に話を移そう。
サロンからのレポートに劣らず、私にとっても興味深いものである。
あなたに記事を送ろうと思ってます。
ワルシャワ・ガゼットの半ページの記事には、エルスネル教授を揶揄するようなことが書かれています。
モリオル家で食事をしたとき、ソリーヴァは私にこう言いました。
彼は、あなたが手紙をくれたと言っていました。
ソリーヴァが、もしも、あなたに返事をくれるなら、この出来事について言及することを忘れないだろう。しかし、私は、
できることなら、この事件をあなたに明確に理解していただくために、あなたに新聞をお送りしたいのです.....。しかし
諺にあるように、「ウィンクはうなずくのと同じこと」*である。
ということわざがある。私のコンサートの後、
特にポーランドのクーリエ紙に掲載された。
一方的な賞賛に触発されたものではあったが、いずれにせよ大目に見てもらえるものだった。」
カジンスキー (チェロ奏者)とリハーサルを試したが特に問題は無かったとフレデリックは語った。次に、音楽愛好家の歌手のソリーヴァ夫人が夜会で、ティティウスの兄に会い、ティティウスに手紙を出していたことをフレデリックはティティウスから聞いた。
しかし、ソリーヴァ夫人は素人の愛好家だから、ソリーヴァ夫人はフレデリックの賛辞の
評論の文面の表面しか理解しておらず、
フレデリックに対しては寛容な方だから、
まずまず問題はないだろう、とフレデリックはティティウスに報告した。
ということはソリーヴァ夫人の手紙では
物事の本筋がわからないであろうから、
問題の評論をティティウスに送るから
、ソリーヴァ夫人の感想は忘れて、よく
文章を理解してくださいと、フレデリックはティティウスに伝えたいのだ。
「『官報』もまた、数ページを割いて私を称賛したが、とりわけ、その号外に、(世界最高の意図をもって)と、ばかげたことを山のように書き立てたのだ。
私は『ポーランド公報』に返事を書く気力がなくなり絶望しました。
官報に掲載された記事は、ドイツ人がモーツァルトを誇りにしているのと同じように、次のように主張している。
”ドイツ人がモーツァルトを誇りに思うように、ポーランド人も私を誇りに思うだろう。″しかし、その記事の最初の方に、もし私が
(✳︎衒学者やロシニステ(愚かな表現だ!)の手に落ちたら)と述べられている。
いわば、私はありのままの自分であってはいけないのです。」
〔✳︎衒学者(げんがくしゃ)とは、論理の形式、厳密性、正確性などに過剰にこだわったり、学識をひけらかし傲慢な態度を見せるような人物のこと。
✳︎ロシニステ✳︎ロッシーニ主義者〕
  ポーランド政府が発行する機関誌の評論で、フレデリックは世界最高だと崇め奉りられたが、この賛辞はフレデリックを追い詰め絶望感に追い込んだ。
しかし、フレデリックは続けた、
「実際には、この記事は正しいです。なぜなら、私を教え、説得する方法を理解していたエルスネル先生から学ばなかったら、私は間違いなく今日よりも知識が少なかったでしょうから」
確かに、賛辞は全くの間違いではない、
それは、エルスネル先生から学んだ基礎があったからだと、謙虚に語った。
そして、
「ロシニステス[クルピンスキーを指す]についてのこの刺し傷と、(エルスネルは単に弟子を紹介したに過ぎない)エルスネル先生を称賛するこの言葉は、あなたが知る人たち
を激怒させたのだ。
『ワルシャワ・ガゼット』誌に寄稿した彼は、フレドロの戯曲『友人たち』から始まり、ロッシーニの『オリ伯爵』で終わる論文で、なぜエルスネルに私が感謝しなければならないのだろう?
彼が袖から仔犬を次から次へと振り出すことことができないのは明らかであり、
私のような才能以外は、エルスネル先生は、藁なしではレンガは作れないことを示したにすぎないのです。」
つまりは、フレデリックは自分の才能は独自のものだと自覚していた。そして、
エルスネル先生は大多数の平凡な生徒をそこそこ出来るように教えたが、フレデリックのような非凡な生徒を次々と出せるわけではないのだ、エルスネル自身もそれを自覚していたから、フレデリックの才能は生まれつきの独自のものだから、エルスネルの手柄のように書かれることに怒りをあらわにしたのだ。
そして、フレデリックの報告は長々とまだあった。
 「私の2回目のコンサートでは、ノヴァコフスキ(エルスネルのもう一人の弟子)の交響曲が演奏されたことをあなたに説明しておく必要があります。
35年前のエルスネル教授の
四重奏曲のタイトルには、「最高のポーランド風」という作品がある。
ポーランド風のメヌエットということで、出版社が題名付け加えたものです。
今日のプレス・ノーティスプレス新聞は、作曲者の名前を出さずに 、このカルテットを馬鹿にしているのです。
 ソリーヴァ夫人は、セシリア[クルピンスキーのオペラ]を揶揄するために同じ言い回しを使うかもしれないと言う。
というのも、記事の著者は、愛情と繊細さを持って私のことを語りながら、実際には、私のことを鼻でつまみ、ロッシーニを勉強したほうがいいが、彼の真似はしないようにと私を馬鹿にし見下しているのだ。」
エルスネル教授を馬鹿にし、フレデリックを賞賛したかに見せかけ、実はフレデリックの頭を押さえつけている評論は、論争を巻き起こし、一体、誰が一番悪いのかを、
ティティウスに理解を求めたフレデリックだった。
「チェシリア(クルピンスキーのオペラ)をからかうのに同じ言い回しを使っています。
官報ではない評論では、私には、独創性があると述べていることから、官報もそれを否定はできないのです。 
ですから、彼らが、これまで以上に期待している3回目のコンサートについては、
少なくともワルシャワを出発の直前までは、私は、次のコンサートで演奏はしません。」
フレデリックはワルシャワを発つことを決意していた。
「新しいコンチェルトはまだ完成していません。依頼されている『ポーランド民謡によるファンタジア作品13』」と、
あなたに献呈した『変奏曲Op, 23』を演奏
することになると思います。」
ワルシャワで最後の演奏会のプログラムを
密かに決めていることを、ティティウスに
明かした。
「ライプツィヒ・フェアが始まり、楽譜商のブジェジナは(ウィーンからの楽譜)委託品を受け取ることになっている。 
だった今、コンスタンティヌス[ロシア副王]がヴァレリアンと一緒に車で通り過ぎたところです。
スカルジンスキ、そして、その後ろにはジャンドル(彼のスパイ)が乗っている。
馬車が通り過ぎると、遠くに明るい模様の帽子を被った貴夫人が見えました。
いい天気だ…。 (そして、私に運動をさせてくれるツェンスキがやって来ました。
善良な彼はいつも私の健康に気を配ってくれます。
彼と一緒に通りを歩けば、あなたのことを思い出すような人に出会えるかもしれない。
 私が大切にしているのはあなただけだから。
F .ショパン
追伸 ところで、ばかばかしいニュースの中で、一つ付け加えなければなりません。
オーロウスキーは私のテーマからマズルカとギャロップを作り上げました
もちろん私は彼にそれらを公開しないように頼んだ。」
ツェンスキは、前の年の1829年に、
フレデリック・ショパンの学友で将来は医学博士になるアルフォンス・ヤン・フレデリック・ブラント、ロムアルト・フーぺ、イグナッツ・マチェフスキ、ミチェスワフ・ポトッキ、の6人でクラクフ、ヴィエリチュカ、
ウィーン、ブラハ、ドレスデンを旅行した事があった。
そして、スカルジンスキとはヴァレリ・スカルジンスキ(1805年‐1851以降)のことで彼は銀行家で、プシェージナ社とクルコフスキー社から1830年にピアノ舞曲を出版した、ポーランド銀行に務めていて、ダイヤモンドのボタンの付いた服を着て王様気取りで街を闊歩していたことをフレデリックは軽蔑していた。
コンスタンチン大公の命令でスカルジンスキを監視していたアレクセイ・ジャンドルだったが、彼はコンスタンチン大公の腹心で秘密警察の一員だった、ジャンドルは
11月蜂起で、コンスタンチン大公と似ていたことから間違えられて暗殺されたと、モリオリが伝えた。

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 ✳︎ソリーヴァ夫人とは、ルドヴィク・ソヴァン1796頃−1843医学博士、作曲家と結婚サロンを主催していた。フレデリックは素人愛好家の歌手ソリヴァはたいしたことがないとティティウスに話した。
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アレクサンダー・オルウォフスキ
( 1777 年3 月 9 日ワルシャワ−1832 年3 月 13 日にサンクトペテルブルクで死去55歳) 
ポーランドの製図家、画家、グラフィック アーティスト。サンクトペテルブルク在住のポーランド人画家兼製図家 、ロシア帝国におけるリトグラフの先駆者であった。軍人だった、
 オルウォフスキは、1777 年 3 月 9 日ワルシャワの貧乏な貴族の家に生まれた。
父親は居酒屋を営んでいた。彼は幼少期は神童と呼ばれ、すぐにポーランドの王女イザベラ・チャルトリスカはフランス人画家のヤン・ピョートル・ノルブリン(1745 年7 月 15 日ミジー シュル ヨンヌ、フランス−1830 年2 月 23 日 (84歳)フランス、パリ)
に最初の絵画レッスンを受けられるように支援した。
1793年、オルウォフスキはポーランド軍に入隊した。帝政ロシアとプロイセンに対するコシチュシュコ蜂起に参加した 。負傷した彼は、ユゼフ・ポニャトフスキ王子の援助を受けワルシャワに戻り絵の勉強を続けた。
彼はノルブリン、マルチェロ・バッチャレッリ、ウィンセンティ・ド・レッサーなど有名な画家に学んだ。
1802 年ポーランド分割後、彼はロシアに移住し、リトグラフの先駆者となった。
彼の作品には、ポーランドとロシアの日常生活を描いた膨大な数のスケッチや、
コシチュシュコ蜂起やポーランドの戦争の場面も描いた。
彼はサルヴァトール・ローザやJP・ノルブリンやオランダの画家レンブラントの様式で描いた。彼は熟練した製図家でもあり観察者であった。風刺的なユーモアを交えて表現することも出来た。彼は自分の絵を石版印刷で再現し最初にロシアに紹介した。ポーランド芸術にも影響を与えた。1832 年 3 月 13 日サンクトペテルブルクにて彼はに亡くなりました。
アレクサンダー・オルウォフスキは
1834年にアダム・ミツキェヴィチが、
詩「パン・タデウシュ」やアレクサンドル・プーシキンの作品の中で触れている。
1973年、彼の最初のアメリカでの展覧会がダートマス大学のホプキンスセンター博物館で開催された[ 3 ]。彼の絵画「Kozak poi konie」と「Kozak na koniu」は、ニューヨークのコジオスコ財団のポルアートギャラリーによって展示され、オークションに掛けられました。1987 年 2 月 7 日[ 3 ]。推定落札額は8,000ドルから9,000ドルの間であった[ 3 ]。
アレクサンダー・オルウォフスキ、
若い頃の自画像
(1800年ワルシャワ国立美術館所蔵)
1973年アメリカ、ニューヨークの展覧会で彼の絵画「Kozak poi konie」と「Kozak na koniu」は、オークションに掛けられ1987 年 2 月 7 日推定落札額は8,000ドルから9,000ドルの間であった。
自画像(厚紙に水彩と鉛筆)
ロシア・トレチャコフ美術館所蔵

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ショパン作曲
ロンド・ア・ラ・マズルヘ長調
作品5
アレキサンドリーヌ・ド・モリオル伯爵令嬢に献呈
1826年作曲
1828年2月28日ワルシャワ ブジェージーナ社出版 ロシア国立図書館所蔵

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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