フレデリック•ショパン、貴族の伯爵夫人となったソンターグ夫人の人生、フレデリックは貴族の夜会から外される…

根が優しい性格のフレデリックは、
あっちの伯爵夫人こっちの伯爵夫人に取り入ることに忙しく、気の休まる日がなかった。
ゾンターグ夫人は、1830年のこの時24歳だった。
ソンターグ夫人が歌手になったことは
家業のようなものであった。ゾンターグ夫人の父親はフランツ・アントン・ソンターグ( 1783年1月27日 マインツ−1819年3月28日マインツ)ドイツの歌手、俳優だった。
母親はフランツィスカ・ソンタグ(旧姓マルトロフまたはマルクロフ)(1787年1月2日/1789年 - 1865年4月10日)ドイツのオペラ歌手、舞台女優であった。ソンターグ夫人の妹は修道女で歌手だった。
こうした家族に囲まれて育った、ソンターグは、五歳の頃から舞台に立っていたためか、
24歳で既に疲れきっていた。フレデリックに
オペラを歌うことに疲れたと漏らしていた。
1829年に結婚していたため、ワルシャワに公演に来た時は、それを隠して舞台に立っていた可能性がある。そのため人々はソンターグ嬢と思っていた。
「侍従長、上院議員、地方知事、将軍、准尉など、ソンターグの周りをうろうろし、彼女のかわいい目を見つめ、天気の話をする…」とフレデリックの書簡にあるように、ソンターグは老人達の性の対象の餌食にされたくなかったからフレデリックを盾にしていた。
「彼女がどれほど疲れていたかを見ていたからだ。」フレデリックはこれらの老人達の下心のある訪問者からソンターグを庇っていたのかもしれない。
ソンターグと同じソファに座りながらも
フレデリックはソンターグとは親密に会話したが自分はそれ以上は何もないのだとティトゥスに話した。
フレデリックがソンターグを庇うのは、同情心と善意の人だったからなのか…。
ソンターグの経歴に注目する点は、1824年5月7日、ベートーヴェンの交響曲第9番とミサ・ソレムニスの初演にソプラノ独唱として招かれたことだ。
また、同じ頃に有名になったスペインの歌手、マリア・フェリシア・マリブラン(1808年3月24日 - 1836年9月23日28歳没)とソンターグはヴァイオリニスト でベルギーの作曲家シャルル=オーギュスト・ド・ベリオ(1802 年 2 月 20 日−1870 年 4 月 8 日)のお気に入りだった。
しかし、ソンターグに拒絶されたベリオはマリア・マリブランと結婚した。ソンターグはベリオのキャリアを傷つけないように秘密
で駐ハーグのサルデーニャ大使カルロ・ロッシ伯爵(1797年−1874年)と 後妻として結婚した。
ソンターグは1828 年と1829 年にはパリとロンドンのキングス劇場で歌った。
ワルシャワに来たのは1830年の
5月とフレデリックの書簡にあるように、
事実、1830年5月11日にワルシャワの新聞にポーランド来訪と記録されている。ソンターグはグダニスクからボズナンに入り
5月25日演奏会に出演し、ワルシャワに28日
に到着した。ソンターグはワルシャワのビェランスカ通りにあったホテルヴィレンスキに滞在した。(現在建物はない。同じ名前のホテルがワルシャワ郊外にあるが関連はない推測)そのホテルでフレデリックはソンターグ夫人と面会した。
そして、ソンターグはワルシャワでフレデリックと面会したこの年の、1830年、25歳でプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって貴族に叙爵(爵位を授けた)。晴れて「フォン・ラウエンシュタイン伯爵夫人」となった彼女は夫と一緒に公的に暮らすことができるようになった。ソンターグ夫人のその後は、
7人の子供を授かり彼女は舞台から引退した。
彼女は、1854年6月17日48歳の時にメキシコ
で亡くなった。
フレデリック•ショパンが亡くなるのは1849年10月17日。
1830年、フレデリックは貴族のサロンで演奏するためにパトロンを探していた。
ソンターグ夫人賛美も営業のひとつだったが
フレデリックはソンターグが爵位を授かり伯爵夫人となった宮廷の夜会には招かれなかったのである。フレデリックの努力は報われずひとつの貴族社会からフレデリックは除外されてしまった。

ヘンリエッテ・ソンターグ

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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