フレデリック・ショパン、ティトゥスは罪深きアラベールなのか…貧乏から這い上がるには同類相憐れむフレデリック…

🎶ポドワレ通りのフレデリックとティトゥスとコンスタンツァア🎶
゛ティトゥスよ、君はアラベール…〟
フレデリックにはティトゥスがアラベールと同じに見えるのだ。
「親愛なる友よ 薄汚い偽善者め 最低のオリ伯爵!アベラール!」
ティトゥスの恋の相手はコンスタンツァアでも伯爵夫人でもなかった。それは、本当に17歳のうら若き伯爵令嬢?なのか…
アラベールもまた、17歳という触れ込みに騙されて欲望の赴くまま罪を犯したため、その罪は恐ろしい罰が待っていたのだ、その末路は哀れなものであった。
フレデリックはティトゥスの罪深さを罵るのを辞めなかった。アラベールはアベラールとは中世フランスの哲学者「論理学者・キリスト教神学者、パリのノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師となり名声を得た歴史的人物。つまりはアラベールの恋のお相手のエロイーズは修道女で当時17歳と叔父の被保護者が世間に売り込んでいた。
アラベールはエロイーズより20歳以上歳上であることを神学の道から外れていると世間から非難されたが、その逆で、実はエロイーズはアラベールよりも歳上だと知っていた人物が存在していた。彼女は20歳以上年齢を若く偽っていたのだった…。この恋の末路は最悪に哀れに終わったという歴史的な戒めがある。だから、ティトゥスも、17歳の伯爵令嬢の少女を騙して誘惑しているつもりが、実はティトゥスのほうが誘惑されて騙されているかもしれないのだ。本当は伯爵令嬢は年取ったただの婦人かもしれないのだ。。。と、フレデリックはティトゥスに警告をした。フレデリックは古い戒めを他人の忠告に使うことがよくあった。
それでも、ティトゥスが一番好きなのは
フレデリックであり、フレデリックのために
伯爵令嬢?が何歳であろうが上手く取り込めれば貧乏な下級貴族から這い上がれるのだ、
だから、悪党ティトゥスと罵りながらも、
音楽で生きるためのお金と純粋にティトゥスを慕う愛を捨てらないフレデリックもまた
罪人なのだ。
貧しさゆえに生きる道を二人で企むしかないこの二人は純粋過ぎるとも言えるのか…
…ティトゥスはフレデリックのために、だから、フレデリックのティトゥスへの罵りは自分が信仰する神への懺悔でもあるフレデリック。
「どういうわけかわからないのですが、私は素晴らしい気分なのです。
父も母も喜んでいます。」
フレデリックはティトゥスからポレティオ伯爵を通じて書簡と本を受け取ったお礼を伝えた。ワルシャワ音楽院にイタリアから来ていたイタリア人のイタリア語の教師スタニスワフ・リナルディはなぜかフレデリックはワルシャワ市内でよく出会した。イタリア語を習っていたフレデリックだが、リナルディに話しかけられてもさっぱりわからず、フレデリックはこの類の外国人スパイ教師を厄介に思っていた。
「イタリア人によく道で会うが毎回迷惑しているのだ」ティトゥスに告げるフレデリック。そして、
お別れに演奏するコンチェルトの準備は着々と進んでいたが、オーケストラが自分の思い通りに演奏してくれるかはわからなかった。コンチェルトの終楽章は気に入られたが、フレデリックが望んでいるような弦楽器の表現はまた別の問題なのだ。
「私は満足しているのです。
人々は、私の最新のフィナーレが一番魅力的だと言うのです。来週の水曜日にリハーサルを終えたら、あなたにオーケストラと私の相性を報告するつもりです。
明日はカルテットで一度試すつもりです。」
それを終えるとフレデリックは決心を固め、ポーランドを出て行かなくてはならない。しかし、フデリックにはウィーンも苦い思い出があり魅力を感じなかった。イタリア人の教師からは良いイタリアのイメージが湧いてこない。全く外国に夢が持てないのだ。
「リハーサルが終わったら、
僕はどこかへ行こうと思っています。
どこに行くかというと、どこにも惹かれるものがないのです。」
音楽の話を終えると、フレデリックは世間から誤解されている自分の恋愛事情を否定した。
「ワルシャワの多くの人たちは私がポーランドを出て行くのは恋愛が理由だと疑っているのです、しかし、あなたはそんなことは考えないでください。
私が利私欲のためではないから、そんなことはどうでもいいことだからです。たとえ私が恋をしていたとしても、無益な情熱を世間に隠すことができる私は強い人間なのです。
あなたはお好きなようにお考えください。」
フレデリックがポーランドを出て行くのはコンスタンツァアと行く先一緒になれないからだと噂されていた。しかし、自分だけの立身出世のために国を出て行くのではないというフレデリックは、
人々が間違った噂を立てようがどうでもよかったのだ。無益な情熱とはコンスタンツァアへの想いを経つことはできないが、
その想いは隠し通す覚悟だと宣言するフレデリックなのだ。なぜ?コンスタンツァアは
国が決めた人と結婚するからなのだ。
二人だけで教会で誓い合い結婚しフロリアで
過ごした日々はなかったことにしなくてはならないフレデリック。祖国のために国から出て働かねばならないからだ。従うしか道はないフレデリック。
フレデリックの両親にも国から幾らかの褒美があるから、フレデリックの苦しみとは裏腹に両親は喜んでいるのだ。
「昨日ポドワレ通りでお会いした伯爵(パヴウオスキ伯爵)から、あなたに書簡をお送りします。」この頃から自分で書簡を出せないフレデリック…
「私は あなたと一緒に旅行したいとは思いません。正直なところ、もし一緒に旅に出れば、私たちが異国の地で初めて抱き合うとしたら、平凡で単調な1,000日以上のあなたと私の貴重な瞬間が台無しになってしまうからです。喜びがすべての冷たい形式的な表現を追い払い、天から授けられた舌で心と心が語り合うときに唇に浮かぶ言葉で、あなたを迎え、歓迎することができないだろう!」
ティトゥスとも一緒には出国できない、
何もかも諦め捨てなくてはならないと叫ぶフレデリック!
「天国のような舌!なんて幸のない表現だろう。天国の肝臓とか天国のへそとか言うのと同じくらい、嫌になるほど物質主義的だ。しかし、私が海外であなたに会う瞬間に話を戻そう。もし、あなたに会えたら、おそらく私は自分をコントロールすることができず、
私の目の前に常にあること、私の耳でいつでも鳴り響いていること、そして私にこの世で最大の喜びと同時に最大の不幸をもたらしている私の心の底をあなたに語ってしまうであろう。それでも、あなたは私が恋をしているなんて思わないでください......それは後の楽しみに取っておくことだから。」
全てを諦めたふりをしてお国のためにポーランドを出る覚悟を決めたフレデリック。
私とコンスタンツァアとの恋のことはあなたも隠し通してください。そして、いつの日か再会した時にはあなたも私も真実の恋は何だったのか語り合おうではないか…。

ポーランド、ビドゴシュチュ、
ポドワレ通り、
 ポドワレ通りはビドゴシュチュ旧市街 の歴史的な通りである。旧市街の東部に位置する。グロツカ通りからドゥウガ通りまでほぼ南北に伸びていて長さは 230 メートル。
この通りの名前は
16 世紀から 18 世紀前半 - 「Platea dicta Frog」、「Wałowa」と呼ばれていた。その後は、1800-1920 - ヴァルシュトラーセ
1920-1939 - ポドワレ、1939-1945 - ヴァルシュトラーセ、1945年から - ポドワレ

【フレデリック・ショパンの頃はヴァルシュトラーセと呼ばれていた。 
では、なぜ、フレデリック・ショパンはポドワレと呼んでいたのか、
歴史は、1772年にプロイセンがこの都市を占領した後に、通りの名前はヴァウォヴァ、そしてヴァルシュトラーセに変更されていた。
フレデリック・ショパンは14世紀から始まった当時のポーランド語の名前ポドワレを使っていたのだ。】

この名前は、街の要塞の一部である城の堀に沿った通りの東側に位置していた。ポーランド語で「城壁」を意味する要塞。

16世紀の地図を元にビドゴシュチュのポドヴァレ通り は1890 年に再現された。
16 世紀には、ワルシャワを訪れる紳士のサービスと快適さを目的とした建物がここにありました。翌年、ここに印象的な宮殿が建てられ始めました。その後、馬具職人と呼ばれる職人が定住した。

ポドヴァレ通りは、ビドゴシュチュの旧市街が形成された14世紀半ばに敷設された。
街の東端にある城の堀の位置に沿っていて、古代の市憲章と中世初期の城の境界線を示していた。14世紀半ば、カジミ​​ェシュ3世大王がスタロストフ城の建設を承認した。
ポドヴァレ通り(グロツカ通りとの交差点)の考古学的調査で、深さ1.2~2メートルの地点に、14世紀末から15世紀初頭の陶器が混じった木造建築物が発見された。
 16世紀以降の柵の木造構造物の遺跡も発見された。
ポドヴァレ通りは、グダニスクとシフィエンチェからイノヴロツワフおよび南方に向かう交易路につながる交通路だった。この交易路は北の「グダニスク門」から始まり、ブルダ川にかかる橋を通り、南の「クヤフスカ門」で終わった。
城壁沿いに位置していたため、ポドワレ通りの最初の建物は西側にのみ現れ東側の正面は17世紀後半に要塞の位置を特定した。
2005年考古学的調査では、この場所は川の洪水の周期により不安定な場所だった。
堀は14世紀に徐々に水没した。
ポドヴァレ通りに家屋や醸造所があった記録は1560年。1640年代から1660年代にレンガ造りの建物が建設された。1772年にプロイセンがこの都市を占領した。

プロイセンの幾何学者グレータは、
1774年にブロムベルクの計画では、通りの西側にはドゥガ通り、ザウレク通り、グロツカ通りの角に空き地が複数あった、東側にはグロツカ通りの角とクヤフスカ門には建物がいくつか建っている。1787年、マグジンスキエゴ通りとの交差点に旧福音派教区教会が建てられた。
1809年ポドヴァレ通りの南部(現在の11番から15番)に最初の建物が建てられた。 17世紀半ばまでに、ポドヴァレ通りは家々が連なり並んで建っていた。
1899年、ポドワレ通りの東側にあった古い城の丘は解体する大規模な工事が始まった。

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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