腹心の友と家族を想うショパン
時は1830年の11月の冬であった。
ショパンは上流階級の貴婦人たちにイタリア行きを薦められたが、父ニコラとの約束通りプ
ラハを出た後、予定していたウィーンに来ていた。
ウィーンの気候は春と秋が短く冬が長い。そのため、ウィーンの冬は薄暗い日が多い。
ウィーンは1月2月が本格的な冬で氷点下20℃になる日もある。
ショパンが生きた19世紀の頃の気候は、特に寒冷化が進み気温がかなり厳しい日が多かっ
た。ショパンがワルシャワを出たのは10月の秋のことだった、それから、
時は11月の下旬、曇りの日も多く薄暗い日が続くと人は心細くなる頃であった。
そんなある日、ショパンはワルシャワに残してきた友人で医師のヤン・マトゥシンスキのこ
とを思い出していた。
ヤン・マトゥシンスキはショパンのワルシャワの少年時代からの友人である。
ショパンはワルシャワを出てからポーランドンからの友人の手紙を毎日待っていた。
ウィーンに来たことをとても嬉しいと強がりを語りながらも、
ショパンは手紙を友人に書いて送ってもポーランドからは手紙がショパンに返事が届かない
ことに寂しさを隠しきれず、ショパンはいらだちを感じていた。
ショパンはヤン・マトゥシンスキに宛てて「君が僕にまだ手紙を書いて書いていないとした
ら、君は鬼に食われるがいい」と感情をぶつけた。
ショパンはワルシャワの家族の事も、姉のルドヴィカが作った家族の髪の毛を集めて編んだ
指輪を眺めては思い出していた。
ショパンの旅はポーランドから遠く離れるほど家族や友人への懐かしさが募って来ていた。
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