フレデリック・ショパン、「さようならポーランド」永遠の別れとは魂は何処へ…。

ついにお別れ演奏会は大成功の後に終わった。フレデリックが入念に準備した甲斐あって、アダージョでオーケストラがピアノの邪魔をすることもなくフレデリックの計算された理想の世界観に近づくことができた。
ポトゥジンにティトゥスは戻っていた。
クレジックはお別れ演奏会に来なかったティトゥスにお別れ演奏会は成功したことを翌日直ぐに報告した。
「昨日のコンサートがとてもうまくいったことを急いでお知らせします。
閣下にお伝えしたいのは、私は少しも緊張していなかったということです。
会場は満席だった。ゲルナーの交響曲から始まり、殿下はホ短調協奏曲のアレグロを弾かれました。」少々おどけ気味に、ティトゥスよ、君は来なかったね、と言いたい気持ちを堪えて書くフレデリック。
「耳をつんざくような拍手。ヴォルコフ嬢が天使のような青い衣装で魅力的に歌った。
ソリーヴァは、自作の「合唱付きアリア」のためにを彼が指揮したことを喜んでいた。
このアリアの後、私のアダージョとロンドが演奏され、休憩に入った。私の友人たちが軽食をとり 後半はウィリアム・テル序曲から始まった。
ソリーヴァはそれをうまく指揮し、素晴らしい印象を残しました。
実際、このときイタリア人はとても友好的で、私は彼に感謝してもしきれないほどだった。」ソリーヴァは作曲家でありワルシャワ音楽院で声楽を教えていた。この時、フレデリックの協奏曲ホ短調の初演を指揮したのもソリーヴァだった。
フレデリックは自分の演奏の出来栄えが誇らしかった。そして、
コンスタンツァアの歌を胸に焼き付けてたフレデリック、
「コンスタンツァアのアリアもソリーヴァが指揮した。彼女は白の衣装を身にまとい、髪には薔薇を挿していたが、それが見事に彼女に似合っていた。アンジェラのアリアを除けば これ以上の歌唱は他にはないほどでした。」
コンスタンツァアの髪には薔薇の花が一輪…フレデリックがあげた花に違いない。
「O quante lagrime per te versai "を覚えているだろう。彼女は "Tutto detesto "を低音Bまで見事に歌い上げ、ジエリンスキーはそのBだけで1,000ドゥカットの価値があると断言した。」コンスタンツァアの低音Bの一音だけの声に1750万円の価値があるとフレデリックに断言しに来たジェリンスキー…。
『あなたのためにどれだけ涙を流したことか』
『私が憎むものすべて 』
イタリア語で歌い上げるコンスタンツァアは
フレデリックとの別れを悲しみ、この仕組まれた望まぬ運命が憎かった感情が歌詞と重なり合い、信じられぬほどの名演を生んだ。
ジェリンスキーはフレデリックと別れなくてならないコンスタンツァアをお金で買うとでも言うのか…。
「このアリアは、彼女の声に合うように移調されたものであり、それによって大きな利益を得たことをお伝えしなければならない。」
そのお金は誰が得たのか…。
「コンスタンツァアが 舞台から退場した後、私たちはポーランドのポット・プーリに取り掛かった。」この曲は、フレデリックのポーランドの歌による幻想曲イ長調作品13のことで、初の公開演奏会で既に親しまれていた。
「今回、私は自分のやっていることを理解し、オーケストラも自分のやっていることを理解し、聴衆もそれに気づいた。
今回は、フィナーレのマズルカの最初の小節を聴くやいなや、拍手が沸き起こり、最後にいつものバカ騒ぎで私は呼び戻された。
私は、ブラントが教えてくれた礼儀正しいお辞儀の仕方で、4回もお辞儀をしなければならなかった。」ポーランドの歌による幻想曲で
聴衆はわきにわいたのだ。

そして、ブラントとはフレデリックのワルシャワ高校時代の同級生のことで、彼は
医学の道に進んでいた。そのブラントのおかげで、フレデリックはステージマナーをようやく覚えたのだった。

「もしソリーヴァが私のスコアを家に持ち帰って見たり、私が猛スピードで走ることを許さないような態度をとらなかったら、昨夜はどうなっていたかわからない。
しかし、ソリーヴァは私たちをうまくまとめてくれた。」ソリーヴァは指揮をするために
自宅でもフレデリックの総譜をよく読んでくれていたはずだが、本番はテンポが速すぎたため、フレデリックはテンポが速くならないように弾きながら態度で示した。
し「観客は私のピアノ演奏を楽しんでくれたが、それ以上にウォルク嬢を楽しんでくれた。彼女は来週の土曜日には《理髪師》に出演する。
私は荷造りしか考えていない。. 」
ウォルク嬢が《理髪師》に出演したのは
10月21日だったがフレデリックはまだワルシャワにいたがこれを観に行ったかは不明。

「ラソッキさんが、娘のレッスンのことでエルネマンのところへ一緒に行ってくれるのを待っているんだ。
ラソッキとエルスネル先生の娘さんのレッスンを見に一緒に行くのを待っているところだ。私は後でオートミールを食べますが、その前にあなたからのキスをいただきます。
私の姉妹、父、母、ジヴニー先生、皆は元気であなたに挨拶を送っています。」
涙がぐましいフレデリックの努力の末に、万事上手くいったことをティトゥスに褒めてほしいフレデリックだった。
 こうして、ワルシャワ時代のフレデリックのティトゥスへの書簡は幕を閉じた。
1830年11月2日、フレデリックはティトゥスと共にワルシャワを出発した。
ショパンの恩師エルスネルと大勢の学生たちが、ヴォラゾラ村まで同行し、ショパンに短いカンタータを歌い捧げた。
フレデリック・ショパンはポーランドの土を再び踏むことはなかったが、彼はその思い出と印象を魂に刻み、その心臓はワルシャワの聖十字架教会のコンスタンツァアが座りいた場所にある柱に還り、彼は世界中の永遠のひととなり生き続けた。



ゼリンスキー・グスタフ
1809年1月1日 マルコヴィツェ−†1881年11月23日スケペ生まれ)
ポーランドの作家

ジエリンスキは有名なタデウシュ・コシチュシュコ軍の将軍の息子でした。
彼はワルシャワのピアリスト学校とプウォツクの地方学校に通い、1827 年から 1830 年までワルシャワ大学で法律を学んだ。
彼は一等兵として11月蜂起に参加し、ワルシャワの戦い後に将校に昇進しました。
彼はマチェイ・ルイビンスキ将軍の軍隊とともにプロイセンに 赴いた。
恩赦の後、彼はポーランドに戻りました。
彼は、キエルジュに農場を借りました。
ここで彼は文学活動を始めました。
アダム・ザウィッサのパルチザン部隊との接触が原因で、彼は逮捕され、トボリスクに、その後イスジムに強制送還されました。
1842 年に彼はポーランドに戻り、自分と叔父の土地の管理を引き継ぎました。
そして、ワルシャワの文学サークルに参加した彼は、1848 年にワルシャワ図書館の編集者になりました。
1847年、彼はルートヴィク・ノルウィドとともにパリとイタリアへ旅行に行きました。 1858 年に彼は農業協会の会員になりました。彼は1863年から1864年の1月蜂起中にポーランドを離れたが、これに反対した。
その後、彼は貴重な書籍コレクションを構築し、それがトワルジストゥ ナウコウェ ウィ トルニウ図書館の基礎を形成した。
1879年に彼はフィレンツェの テオフィル・レナルトヴィチを訪問しました。
ジエリンスキはオルゲルブランド百科事典と農業百科事典の記事を書いた。
彼の最も重要な文学作品は詩「キルギス」です。 
✳︎彼はフレデリック・ショパンと親交があった可能性がある。
ワルシャワ 聖十字架教会⛪️
🎶Photo by Pianist Yumiko Uno🎶
🎹 撮影者 ピアニスト 宇野由美子 🎹

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