ショパンはウィーンに来てから2つのホテルに宿泊した。最初は最高級の「ホテルロンドン」
。このホテルの事をショパンは異常なほど宿泊費が掛かると嘆いていた。
次に「黄金の仔羊のホテル」に宿泊したが、1週間が経ち父親からの仕送りに頼るしかなかっ
たショパンは経済的に圧迫してきていた。
そこで、ショパンは1830年12月2日からアパートに友人のティトゥス(ワルシャワからウィー
へショパンと一緒に来ていた。ショパンの少年の頃からの友人)と住むことにした。
ショパンは、家賃も安く豪華な家具付きの3階(5階のこと)の部屋を3部屋借りることにした。
ショパンが借りる前は海軍大将のイギリス人が住んでいて、自分もその部屋に住んで人気者
になりたいとショパンは密かに思っていた。
部屋の持ち主はラフマノーヴィチ男爵夫人、スカルジンスキ家と交流のある人物で、ポーラ
ンドの社交界に出入りしていた若くて美人の未亡人である。ワルシャワに長く住んでいたこ
ともありショパンのことを認識していた。
ポーランドびいきでオーストリア人は好まない、プロイセン人であるラフマノーヴィチ男爵
未亡人にショパンは気に入られたのであった。
コールマルクト通り1151番 (現在の9番地)ショパンが住んだアパートは現存しない。
目の前に、ホーフブルク王宮が見える。(シェーンブルン宮殿は夏の離宮、ホーフブルク王宮は冬の主皇宮だった)
現在は、ショパンが滞在していた記念プレートがその場所を示している。
ショパンの肖像画のイメージとは程遠い横顔のショパンだ。
1830年頃のウィーンの地図
ホーフブルク王宮 13世紀頃(1275年ごろ)にオーストリア公国公城としてオタカル2世によって建てられた。
オタカル2世がハプスブルク家に敗れ、ハプスブルク家の居城 兼 王宮となった。
ショパンがコールマルクト通りに滞在していた頃の姿を今もなお残している。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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