ショパンは、ウィーンで20歳を過ぎていた。
彼の置かれた状況はとても大きなうねりの中にいた。
ショパンが演奏会に出演することになるまで、ウィーンに来てからすでに5か月が経とうとしていた。
1931年4月、ショパンが出演する演奏会のポスターがようやく出来あがった。
それは、ショパンの涙ぐましい努力で得た王室の催しで行われる王宮歌手が複数出演する演奏会だ。
ショパンは演奏会の2日前だというのに、うれしいどころか、どうでもいいことにさえ感じられ、死にたいとまで思っていた。
しかし、両親のことを思うとそれは出来なかった。
そして、ワルシャワ音楽院の時からの恋人で婚約者のコンスタンツィアの事を思っていた。
ウィーンでは、すでにショパンは何もかもが古臭く感じられてしまい、何も学ぶことがな
く、堪えがたい状況になっていた。
ショパンは生まれたジェラゾヴァ・ヴォラの自然に囲まれていた穏やかな日々のありがた
みを懐かしく思っていた。そのあたりまえの平和な日々が特別で大切な時間であったことを
知った。
ウィーンに来てから、それは手の届かないものになってしまったことがショパンは悲しかっ
た。
ウィーンの人々は善人だが、道徳心がなく、表面的に慣習に従っているだけであるとショパ
ンは思い、ウィーンの人たちの平凡な臭いをかぐのがもう嫌だとショパンは苦しんだ。
ショパンは思った「ウィーンの人々は自分の仲間ではない」
その日プラーター公園へ行ってみた。そこは、大勢の人々でにぎわっていたが、ショパンは
ひとり孤独を感じていた。
しかし、ショパンは自然の春の息吹を少しでも味わいたかった。
ジェラゾヴァ・ヴォラでの自分の純粋無垢な気持ちを思い出したかった。
その後、嵐が来そうだとショパンは思ったが、嵐はこなかったのだ。
そのことが、ただただショパンの心と身体に悲しみを投げかけた。
Dlaczego?(なぜ)
なぜなのだろう、音楽の慰めが感じられない自分がそこにいた。
ショパンは、いつも0時にはベットに入る、しかし寝る気になれない。
自分に何が足りないのかわからないショパン。
ショパン「僕も、もう二十歳をすぎた」
コンスタンツィア・グロトコフスカ(1810-1889)彼女はウィーンから送られたショパンの肖像画とショパンの手紙を大事に持っていたが亡くなる前にすべて燃やした
ジェラゾヴァ・ヴォラ
ウィーン(18世紀後半頃)プラーターの土地は1162年にフリードリヒ1世により貴族にデ・プラトに与えたものであった
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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