ポーランドからウィーンに来たショパンが置かれた立場は、日を追うごとに厳しくなってき
ていた。
ショパンはワルシャワのプロテスタント教会で大勢が出演した演奏会のとき、アレクサンド
ル1世からダイヤモンドの指輪を褒美として貰ったことがあった。
ウィーンに来てから、依然として収入が全くないショパンは自分の音楽の旅のために使った
お金がワルシャワの家族の財政を圧迫していることを心苦しく思っていた。そのうえ、
ワルシャワは戦争の最中である。ショパンはロシアの皇帝から貰った指輪を手放すように家
族に伝えた。
そのことを、ルドヴィカが作ってくれた家族の髪の毛の指輪は大事だけれど、ロシアの皇帝
から貰った指輪は、もはや1クロイツアー(現在の500円から800円程の価値)の価値と同じ
であるとショパンは思った。
ある日のこと、ノルベルト・アルフォンヌ・クメルスキと、レオポルト・エウスクター・チ
ャペクが毎日ショパンを訪ねて来て、ウィーンから出国するためのお金を用立ててもいいと
ショパンに話を持ち掛けた。
そして、この二人と一緒にレオポルツ゚ベルクとカーレンベルクへショパンは小旅行に行った。
レオポルツ゚ベルクからは、ウィーン,アーグラム、アスパン、ブレスブルクまで一望でき、
ショパンはリチャード1世157-1199(イングランド王、第3十字軍に参加)が幽閉されたこと
で有名なクロイスターノイブルクに行き、ソビェスキ王(ポーランド王・ポーランド人)が
1683年9月12日第二次ウィーン包囲で戦った場所のカーレンベレクに行き、
その場所にあった木の葉をイザベラ(ショパンの妹)に送った。
クロイスターノイブルクにはポーランドの教会があり、ショパンはそこで祖国の家族や友人
たちのことを祈った。
ウィーンに戻ったショパンは、芸術品のコレクターで知られるフックスの家でコレクション
400点もの手稿譜を見せられた。
フックスはショパンに〈J. S. バッハの反転カノン〉を書いた。(ショパン博物館所蔵)
ショパンはマズルカ ヘ短調作品7-3をフックスに書いた。1831年6月20日(ショパンの記
述はない)その日にショパンはフックスから友情の証としてベートーヴェンの自筆譜を1枚
貰った。
この時、フックスのコレクションの中にはすでに、ショパンの〈ロンド ハ長調〉があり装
丁もされていた。しかし、この曲が実際に出版されたのは彼の死後、16年経つてからのこ
とであった。(現在、自筆譜はウィーン楽友協会古文書館に所蔵されている)
アーロイス・フォックス(1799年6月24日ー1853年3月20日)オーストリア・モラヴィア(チァコ共和国)出身 音楽学者・音楽家の肖像画や自筆譜のコレクター
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
0コメント