1832年11月オペラを書いていないことを心配していたエルスネル先生だが、ショパンは、その前の年1831年に歌劇『悪魔のロベール』の主題による協奏的大二重曲を作曲していた。
それは、ピアニストのピキシスがショパンに嫉妬して出版商人のシュレンガー(ショパンに言わせたら馬の糞)にショパンの作品のことを推奨しなくなった頃、シュレンガーがマイアベーアの歌劇「悪魔のローベル」を主題にしてショパンに何か曲を書いてくれないかと依頼してきたのだ。
それに対してショパンはお金をもらわなかった。ショパンは自分の置かれた立場上断れなかったが、この曲は好きではなかったようだ。
それでも、ショパンは、チェロとピアノのための「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲を書き上げていた。マイアベーアの作風は「悪魔のロベール」以前は古典派の表現の作曲技法であったが、悪魔のロベールで初めてロマン派的手法で作曲した。当時ロマン派的なで革新的作風はショパンが得意とするところでもあるため、ショパンが書いた「悪魔のロベール」を元に、マイアベーアは、最初はオペラ・コミックだったこの作品を途中でグランド・オペラに変更したのではないか。
この時、ショパンが書いた「悪魔のローベル」は合作と言われていたチェロのオーギュスト・フランショームがいたが、ロマン派的で革新的な作風からショパンがほぼ書いていると言える。
ショパンは1833年の夏と秋にフランショームの故郷リール(フランス北部ベルギーと国境を接するオー=ド=フランス地域圏の首府)へ行っていた。
ショパンは歌劇『悪魔のロベール』の主題による協奏的大二重曲を書いたが、シュレンガーに金を払うために借金をしなくてはならなかったショパンだった。
エルスネル先生はショパンがお金に困っているとはいえ、ショパンの活動に納得できずパリにいるより、ワルシャワに帰ったほうがいいのではと心配し、何でも良く出来るショパンが自分のオペラがなぜ仕上がらないのかショパンのことを心配していた。
時は1833年に移ると、ショパンは小さなアパルトマン、ポワソニエール大通り27番地5階を後にし、シテ・ベルジェール4番地2階に移り住み、そこに6月中旬まで住んだ。その後、
ショッセ・ダンタン通り5番地の豪華なアパートに引っ越したショパンあった。
ショッセ・ダンタン通り(Rue de la Chaussee d'Antin)5番地
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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