Chopin, 扉の向こうの訪問者は…

ショッセ・ダンタン街5番地、ショパンに訪問者が来ていた.。

玄関の扉をノックする音が回り階段の吹き抜けに響いた。それは、いつものリストやレッスンに訪れるお嬢様ではなかった。

扉を開けると、そこに立っていたのは夢にまで見た懐かしいワルシャワの友の顔であった。

ふたりは5年ぶりの再会を祝った。お互いの姿に年月が経ったことを感じ取ったふたりだった。

ヤン・マッシンスキは11月蜂起の間、ポーランド軍の第5馬ライフル隊の大隊医者を務めた。

その勇敢さと犠牲のためにVirtuti Militari Golden Crossを受け取ったが、その後、ドイツに亡

命しテュービンゲン大学で医学博士号を取得し勉学に励んでいた。

マッシンスキは医学の勉強をしながらも、彼もまた戦争で深く心を痛めていたポーランドの同胞のひとりであった。

パリを訪れた目的は自身の勉強のためもあったが、ショパンの孤独を助けるためだった。

ショパンは身長も伸び丈夫そうに見えたためマッシンスキはひとまず安心したのであった。

しかし、マッシンスキはショパンがパリでたくさんのレッスンを抱えていることや、

作曲の仕事と称するお金のための仕事の内容はショパン自身のためにならない仕事が多いことをマッシンスキは心配したのであった。

そんなショパンをひとりにはしておけなかったマッシンスキだった。

彼は医学学校の勉強と病院に仕事で通うのは少し遠くてもショパンと住めるのは自分しかいないと思い、ショッセ・ダンタン街5番地にショパンと一緒に住むことに決めたのだった。

マッシンスキが来てからは、ショパンの生活は変わり、夜の劇場通いも一緒に行き、あとは家で静かに楽しく会話して過ごすようになったショパンだった。

ワルシャワに住む父ニコラスはこのことをとても喜んでいた。 

そして、ショパンは令嬢のレッスン代ではお金が続かないため、ロスチャイルド、レオ、アイヒタルの銀行の申し出を受けるように父ニコラスはフレデリックに助言したのだった。

そして、父ニコラスはショパンの性格を一番よく理解していた。

「お父さんは詩なんてものは好きでないが、こんな詩が思いついたのだよ」

 詩なんてものは好きでないニコラスの詩

「女神がおまえの若い日に微笑むであろう

女神の笑顔を楽しむであろう、しかし、女神はお前の前から方向を変える時が来る、

盲目になってはいけない、堅実な道を選べ、

いつの日か自分に何も残っていない苦痛を感じる日が来る」

そして、「パリでまだいるつもりなら、11月蜂起のときはポーランドにいなかったのだから、おまえは亡命者として革命家のひとりに数えられないようにしなさい」とニコラスは

注意深く助言をしたのであった。

それに続くように、恩師エルスネル先生からも助言が届いたショパンだった。

エルスネルもショパンのパリでの名声はショパンの本来の才能を発揮しているとは思えず不満を感じていた。

自分自身も辛酸を舐めて来たためショパンには悔しい思いをさせたくなかったのだ。

エルスネル先生はショパンに友人としてそして、ショパンの才能の賛美者として目先の名声

を高めるのではなくポーランドの国民の歴史に残るオペラを書くように助言したのであった。

そして、ショパンのマズルカを批評すると、オペラこそがショパンの真の才能を照らし出

し、ショパンには生まれながらにしてオペラの才能があることをエルスネル先生はお世辞で

はなく知っていたのだった。

そして、ショパンの曲はショパン自身が演奏したときに映し出される絵画というより彫刻で

あることをエルスネルは語った。つまりは、演奏する者によってそれは散々な結果を招くこ

ともエルスネルは知っていたのだ。そのため演奏で良し悪しが曲に出るショパンの曲は、シ

ョパン自身の演奏でなくてはその美しさが照らし出されないとエルスネルは言いたかったのだ。

また、エルスネルはショパンに会って、まだたくさんまだ言いたいことがあったのだった。

そして、ショッセ・ダンタン街5番のアパルトマンは、ショパンはギリシャ神話に出てくるオ

リンパスの山の様に素晴らしいと見栄を張っているそうだが、

本当はパリの上流階級の人から見たらすずめの巣程度の小さなものであろう、とショパンに

無理な見栄を張るなと、エルスネルは苦言を呈したのであった。

エルスネル先生はショパンのオペラを観るまでは死ねないとショパンに言った。

ショパンはワルシャワから友が心配してパリに来てくれた。

父ニコラスとエルスネル先生からも愛されていたフレデリック。

ショパンのオペラへの情熱はどうしてしまったのであろうか。

エルスネル先生は、ショパンの健康と幸運を真の友としてワルシャワから祈った。

1834年秋、エルスネル先生は今日もショパンのオペラを待ちわびていたのであった。

  (ワルシャワではワルシャワ大劇場が1833年に落成した。杮落としはロッシーニの『セビリアの理髪師』であった。1833年2月24日)

ユゼフ・クサヴェルィ・エルスネル(1769年6月1日 - 1854年4月18日)

ポーランドの作曲家で音楽教育家

シレジアのグロットカウ(現在のオポーレ県グロトクフ)生まれ。

父は家具職人でリュートやヴァイオリンを制作していた。母方の祖父も楽器職人だった。家系はドイツ系であるワルシャワへ移住しポーランドの文化に親しんだ。

ヴロツワフとウィーンで音楽を学ぶ。

1791年にブルノでヴァイオリニストとなる。1792年にはルヴフの劇場の楽長に就任する。

1799年から1824年までワルシャワ国立劇場にて首席指揮者を務め、愛国的なポーランド語オペラ(全38曲)を史上初めて作曲して同劇場で初演した。交響曲やミサ曲、ポロネーズ、オラトリオ、室内楽などを作曲した。教育家としては1821年にワルシャワ音楽院を設立し、音楽大学の学長となる。

1823年から1829年までショパンに音楽理論と作曲を教え、「フリデリク・ショパン、3年生、驚くべき才能、音楽の天才」と日記に残した。ショパンのソナタ第1番 ハ短調 作品4 はショパンがワルシャワ音楽院在籍中の1828年エルスネルに献呈した曲である。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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