パリの名門貴族出身のアストルフ•ド•キュスティヌ侯爵(1790-1857)という人物がいた。
彼は旅行が趣味で文学や芸術に特に深い関心を示していた。
また、彼はサン•ガルテンに別荘をもっていて友人たちをよく招いたり、有名人と手紙を交換
したいという欲望の持ち主であった。
ショパンとも知り合いだったが、彼の書く手紙はいずれも感情過多であるため、シ
ョパンはどうしていいか本当のところ困っていた。
1836年3月、ショパンは、ピアニスト・作曲家としてパリ社交界で名を馳せたこともあって交
友関係が多岐に広まってきていた。
そこへ一通の招待状が舞い込んで来た。
それは、あの感情過多のキュスティヌ侯爵からだった。
そこに書かれてあったのは、「ショパンさまのご趣味に合ったプレゼントをわたくしからシ
ョパンさまにお送りします」とあった。(彫刻を贈りたいとキュスティヌ侯爵の申し出だったが実際のところどうなったかは不明)
そして、「わたくしの方から時間の都合をつけてショパンさまのお顔を拝見しに参ります」
とあり、「わたくしの別荘に是非とも招待させてください」と付け加えてあったのだ。
そして、そこでショパンを親切丁寧に接待したい侯爵であった。
ショパンの名声に合わせて至れり尽くせりといったところであろう。
キュスティヌ侯爵の家系は、貴族の出身で父も祖父もギロチンとなり、気丈の母に育てられ
キュスティヌ侯爵は外交官となったが同性愛者であった。しかし、母の勧めで結婚し子供が
生まれたが数年後妻が亡くなり彼は兵士たちのグループに性的交渉を持ちかけたと
ころ、逆に襲われ金を奪われた事件があったといわれているが事実かは不明である。それ以
来、キュスティヌ侯爵はフランスで最も悪名高い同性愛者と呼ばれ、日々パリのゴシップ誌
の種にされていたのだ。当時のキリスト教圏は、同性愛は悪徳であるとされていたのだ。
当時、パリでは文学サロンには同性愛者も受け入れられたが、社交界のサロンはそうはいか
なかった。
そのためか、ショパンはこの誘いには乗らなかったのだった。
キュスティヌ侯爵のことはショパンは、あくまでも良き友人ということに留めていたようだ。
有名になると、ニコラスも心配していたように、様々な誘いがあったショパンであった。
キュスティヌ侯爵はショパンへの招待状に
「エルメノンヴィル、モルトゥフォンテーン、シャンティルへ行って、
私もあなたも健康になって、私とあなたが喜びに満ちた時間を共有したい」と書いて、
更には、ショパンの音楽や名声が自分にとって良い方向であることを願う侯爵だった。
ショパンはこの件は、マッシンスキに相談し丁重にお断りしたのであった。
キュスティーヌ侯爵アストルフ=ルイ=レオノール( 1790年3月18日 - 1857年10月18日)は、フランスの外交官、旅行記の作家。1839年の『Empire of the Czar: A Journey Through Eternal Russia(ツァーの帝国:永遠のロシアの旅)』はニコライ1世統治期のロシアの社会構造、経済、生活様式にも触れている。
アストルフ・ド・キュスティーヌはフランス革命前夜にフランスの貴族の家に生まれる。
父親の家系は18世紀から侯爵の地位にあり有名な磁器作品を所有していた。
母親デルフィーヌも高名な貴族の家の出身で才色兼備で有名だった。
アストルフの父親と祖父(アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ将軍)はフランス革命に賛成していた、しかし、ともにギロチンにかけられてしまった。
アストルフの母は逃れ、キュスティーヌは気丈な母親に育てられた。母デルフィーヌはシャトーブリアンとも交流し高い教育を受けた。キュスティーヌは外交官になって、ウィーン会議に出席、軍事委員会にも認められた。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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