CHOPIN、ショパン、カミーユと共にイギリス小旅行


ショパンは17歳の時、妹エミリア14歳を結核で亡くしている。ショパン自身も子供の頃から

体が弱く、両親はフレデリックの健康をいつも心配していた。

ショパンは体が弱い反面、好奇心が強く、貴族に仕えているかのように見えても魂だけは売

り渡さない強い精神性があったようだ。

時は1837年7月中旬、ショパンはピアノ製作会社「プレイエル商会(Pleyel et Cie )」、イグ

ナツ・プレイエルの息子カミーユ・プレイエル(1788年 - 1855年)と共にイギリスはロンド

ンへ小旅行をした。

イグナツ・プレイエル1832年に亡くなったため、財産整理の経営に関わってきたカルクブレ

ンナーは、ピアノの製造と貸し出しを行うプレイエル&Co.を既に1829年に設立してい

た。そのためカルクブレンナーがショパンにカミーユとロンドンへ行くように勧めた可能性

があるのだ。

その頃、ヨーロッパは産業革命が進む時代でイギリスは特に1830年代にかけて運河時代と呼

ばれる時代で運河建設が進んでいた。

1830年代後半になると蒸気機関車の鉄道網の整備が進み始めていた。

ショパンはロンドンで当時一流ホテルであったサボイア・ホテル(現存しない)にカミーユ

と滞在した。馬車と使用人を雇いお金を浪費したようである。

恐らくショパンはロンドンでも音楽家として名が知られていたため、オペラを鑑賞

し社交界に出入りするにはそうせざる得なかったのであろう。

ショパンはフォンタナの意向でおしのび旅行だったはずだが、ここロンドンでもヴォジンス

キ夫人からの手紙をロンドンの案内人コズミアンを経由して受け取ったのである。

ショパンはコズミアンに礼を言いながらも、ヴォジンスキ夫人にうんざりしていたので

ある。

ショパンはロンドンのことを、何もかもが巨大であり、粗雑で、一見綺麗に見えるが実は汚

いのであると感じたようだ。

ロンドンは短期間だったら楽しめると、パリで待っている友人マッシンスキに伝えてくれと

パリのジュリアン・フォンタナに話した。

産業革命の真っ只中のロンドンの深刻な大気汚染はショパンの健康にとってよくないことは間違いなかった。

ショパンは、ロンドンでは晴れがましい演奏会はなかったが、カミーユと共に、イギリスで有名なピアノ製造技師でチェンバロ製作者のジョン・ブロードウッド( 1732年10月6日 - 1

812年7月17日)でピアノメーカーのブロードウッド・アンド・サンズの創業者の息子二代目のジェームスと面会した。

そこで、ブロードウッド邸のプライベートな集まりピアノを演奏したのであった。

ショパンはこの出来事についての言葉は残っていないが、ショパンはウィーン時代からピア

ノの製造に興味があったため、この訪問はカミーユと共にピアノ製造の発達にショパンも一

役買ったのであろう。

その他、ハンプトン・コート、リッチモンド、ブラックウォール、チェスター、ブリント

ン、アランデル、をショパンはカミーユと共に駅馬車で巡ったのであった。

ジョセフ・エティエンヌ・カミーユ・プレイエル、(1788年12月18日ストラスブール-1855年5月4日モンモランシー、パリ)

カミーユ・プレイエル Camille Pleyel ピアニスト、作曲家、イギリス王国の宮廷音楽家。ヨーロッパを広く旅行した。ピアノ作りの先駆者ブロードウッドをショパンと訪問した。また、エラールピアノも訪問した。

彼はプレエルの名を全世界に広め音楽家たちに親しまれた。彼はショパンからのアドバイス

を取り入れピアノの機能を完成させてた。

1834年、Pleyelは年間100人のピアノを生産し、100人を雇用しました。

世界中で彼の楽器の普及を考えて、さまざまな気候に適応できるよう繊細な楽器を作り出し熱帯化システムを研究した。

1815年から1815年から父親の会社の経営に関わる。1831年ピアニストでベルリオーズの婚約者だったマリーモークと結婚。

1855年5月4日にパリで死去、ペールラシェーズ墓地埋葬された。

1855年にカミーユよりオーギュスト・ヴォルフに経営権が引継がれた。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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