F・CHOPIN、ショパン、再びパリで貧乏に…
1839年10月10日午前5時木曜日ノアンを後にしたショパンとサンド一家は、
10月11日金曜日パリのRue Tronchet 街の5番地に3時から5時の間に到着した。
ショパンとサンド一家には必ずそれぞれの召使が付き物である。ショパンは、いつもポーランド人の召使いを雇っていた。それはポーランド語でショパンは意思疎通をするためであった。それと御車もポーランド人を雇っていた。それをショパンはマッシンスキに手配させていた。
パリで新しく住むアパルトマンは、ショパンの指示通り、フォンタナがピカール街に
ショパンとサンド一家のそれぞれ別々のアパルトマンを探し出して来て契約も済んでいた。
ショパンはフォンタナとマッシンスキがすべて準備を整えてくれたため、再び戻るパリ生活は準備万端であった。
ショパンがパリに戻ったのは約1年ぶりであった。
それから、約1か月が過ぎた頃のことである。
ショパンはドイツの出版社ブライトコップフにプロストを仲介して交渉していた話が決裂しそうになっていた。
ブライトコップフはショパンの作品はドイツでは売れないからショパンが提示した金額では買う気がなかったのだ。
それをプロストはショパンには伝えていなかった。
ショパンはそれを察して、自分で直接ブライトコップフに交渉した。その内容はこうである。
「金額は1曲500フラン。これは、今までかつてないほどの低い金額設定でございます。
ソナタ1曲、スケルツォ1曲、バラード1曲、ポロネーズ2曲、マズルカ4曲、ノクターン2曲、アンプロンプチュ1曲、全部で12曲を売却します。
直接交渉のため仲介料は省きます。」ショパンは6000フランの収入を見込んでいた。
しかし、その一方でショパンはプロブストに150フラン借してほしいと言っていた。
プロブストはブライトコップフからは「ショパンの提示する金額は高いうえに、ドイツではショパンの作品は人気がないから売れないので買いません」と返答を貰い、ショパンからは
売れないのなら「150フランを借してほしい」と言われていたのであった。
それで困ったプロブストはリストの愛人マリー・ダグー伯爵夫人に話し、それをダグー伯爵夫人はリストに手紙で話したのだ。
翌年の1840年には、サンドの戯曲≪コジマ≫の上演が失敗に終わり、サンドは負債を負った。
ショパンとサンド一家は夏の間はノアンで過ごす計画であったが、この年は
予定していた収入が得られず、ノアンへは行けなかった。ノアンで夏を過ごす生活費はサンド一家は4000フランが必要であった。
ショパンは質素なアパルトマンを望んでいたがサンドはお金なら何とでもなると強気であった。しかし、この年はサンドのお金のあては全く外れたのであった。
この時、パリで新しいアパルトマンに召使いを雇い、流行のファッションに身を包み、新しい家具を買い集めたショパンとサンドの贅沢な暮らしぶりは身分相応でなかった結果を招いたのだった。
ショパンが住んだアパルトマン (19世紀頃)
5, rue Tronchet
75009 Paris
ショパンが住んだアパルトマンだった場所 (建物は現存せず、現在は場所を示す記念プレートがある)
5, rue Tronchet
75009 Paris
サンドが住んだアパルトマン (19世紀頃)
16, rue Pigalle(20,Jean-Baptiste Pigalle)
75009 Paris
サンドが住んだアパルトマンだった場所 (建物は現存せず、現在は場所を示す記念プレートがある)
16, rue Pigalle(20,Jean-Baptiste Pigalle)
75009 Paris
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