F・CHOPIN、貧困ショパンのふたりの救世主

1840年の夏はショパンはサンド一家とノアンへは行かず、ド・キュスティヌ侯爵大邸宅で静養したことはショパンの命を生きながらえさせた。

作曲にも新しいアパルトマンで誰にも邪魔されることなく集中できたショパンだった。

1837年から取り組んでいた≪ピアノソナタ第2番 変ロ短調≫も1839年には完成し、1840年になるとパチーニ出版の「百一曲集」に選ばれた≪ワルツ 変イ長調≫ はショパンの自信作であった。その出版が交渉中であるショパンに懐かしいワルシャワの恩師であるヨゼフ・エルスネルから、自身の作品であるオラトリオ≪われらが主の受難≫の出版の依頼をショパンは請け負っていた。

ショパンは恩師であるヨゼフ・エルスネルのために奔走していた。

ショパン自身も出版にはいつも苦労していたが、パリやドイツでエルスネル先生の出版することは、更に難しいという理由をショパンは丁寧にエルスネルへ説明する便りを書いた。

「私はエルスネル先生の≪オラトリオ≫の楽譜をシュレジンガーからエルスネル先生の元へお返しします。

私はシュレジンガーのユダヤ性について考察し哲学的なことを論ずるつもりはありません。けれども、今回のことでは、私は少しばかり彼を擁護しなければならないのです。

エルスネル先生のオラトリオのような大きな作品は製造コストがとても高いというのが現状です。ですから大曲を販売することは無理なのです。なぜなら、このような曲を上演する団体は現在ありません。パリ音楽院でさえ演奏される曲は古いシンフォニーをオーケストラが恒例行事のように演奏する程度でございます。一般大衆は、時折、ヘンデルかバッハを少し聴くことが許されている程度で、このヘンデルへの大衆の趣味が現れ始めてまだ2年程経ったところです。

今でさえ、人々は曲の断片だけを聞くことしか許されておらず、大衆は本物の完全な曲の全容を聴くことは決してありません。

例えば、パリでは去年の冬は、『ユダス・マカベウス』(Judas Maccabaeus)から合唱の一部分を上演しました。それも一度か二度のことです。バッハに関しても曲は忘れましたが、ワンシーズンに1回のみの上演です。一度聞いたことがあるベートーベンの≪オリーブの山≫を除いては長くて大きな作品は上演されません。現在一般的な流行は古典以外の他の偉大な作品の演奏に対しては国や音楽院は反対しています。

それ故、私達が、Mendels- sohn、Schneider、Spohr、Neukomm、そしてエルスネル先生のような長い作品の曲を聴けるようになる日が来るかはわかりません。。。」

ショパンはパリにおける厳しい現状をエルスネル先生に丁寧に伝えた。

ショパンはエルスネル先生の期待に沿うようなオペラの作品を書いていなかった。

それは、ショパンが当時のパリでオペラで生きていくには不利なことが多すぎたのだ。

それでも、ショパンはいつも世の中をよく見渡し流行も鋭く感じ取っていた。受け入れられない曲を書いてもお金にならないことはショパンは嫌というほど苦い経験をしてきたのだ。

ショパンは生きるか死ぬかの綱渡りを常にして生き延びてきたのだ。

エルスネル先生はショパンがワルシャワ音楽院の頃からショパンの才能認めてくれたショパンにとって掛け替えのない恩師なのである。しかし、ショパンも社会の波に揉まれ大きく成長してきていた。

エルスネル先生はこの時71歳であった。ショパンはこの時、自身の曲を世界中で出版する希望を持っていた。

エルスネル先生はショパンをワルシャワからいつも励ましてきていた。エルスネル先生がショパンに自身の出版の仲介を頼んだのは自分の欲のためだけではなかった。

ショパンをいつも遠くから心配していたエルスネル先生はショパンがお金に困っていることは察していたのだった。このとき、ショパンはド・キュスティヌ侯爵とエルスネル先生から仕事を与えてもらい助けられたのだった。


ユダ・マカバイ(Yehudah ha-Makabi 紀元前160年)は、旧約聖書続編の『マカバイ記』に登場する紀元前2世紀のユダヤの民族的英雄。シリアの支配下にあったユダヤの独立を達成することになるマカバイ戦争を指導し、ハスモン朝が開かれる基礎を築いた。ギリシア語名でユーダス・マッカバイオス(Ἰούδας Μακκαβαῖος)、ラテン語名でユダス・マッカベウス(Judas Macchabeus)と呼ばれる。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル( De-Georg Friedrich Händel.ogg Georg Friedrich Händel ['hɛndl], 1685年2月23日 - 1759年4月14日)

『ユダス・マカベウス』(Judas Maccabaeus )HWV63 は、ユダヤ人の運命の落胆から歓喜までの様子や感情の変化を表現しているヘンデルが作曲したオラトリオである。

ヘンデルはドイツ出身であるが、イギリスで活躍し、イギリスに帰化した作曲家である。バロック音楽における重要な作曲家で特にイタリア語のオペラ・セリアや英語のオラトリオの作曲によって知られている。

『ユダス・マカベウス』は1745年から1746年にかけてジャコバイトの反乱の鎮圧で戦ったカンバーランド公爵のスコットランドからの帰還を祝うために書かれた曲で、軍国主義四部作『機会オラトリオ』『ユダス・マカベウス』『ヨシュア』『アレクサンダー・バルス』と言われている。

ユダ・マカバイは偶像崇拝を強要する異教徒の圧制からイスラエルを解放した英雄として、旧約聖書続編の『マカバイ記』に登場する。

1747年4月1日ロンドン、コヴェント・ガーデンで初演された。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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