F・CHOPIN、サンドVS.ダグー、そして歌手ポーリーヌ

サンドとダグーは憎しみ合っていた。ダグーはマルリアニ夫人にショパンとサンドを中傷することでマルリアニ夫人に陰で取り入り、社交界でダグー自身がサンドの鼻を明かしたい思惑を持っていた。

ダグーはリストに自分がマルリアニと仲良くなったから、ショパンとサンドにはマルリアニから制裁があるであろうと報告していた。そして、ショパンはサンドの異常なまでの愛欲でいずれは殺されるであろうとダグーは綴り、サンドがショパンを捨てる時、それはショパンがサンドの独占欲で殺されるときであるという意味深な内容とも取れる文章をダグーはリストに書いていたのだ。リストの愛人ダグー・マリーは、元リストの愛人サンドを憎んでいた。ダグーはサンド以上に恐るべし女であったのだ。

そこまで憎まれているとも知ってか知らずか、それでもサンドはサンドで強かに生きていた。

ある日、サンドに、ショパンがプレイエルで演奏会を開いてはどうかという話が舞い込んできた。カンブレーの旅は惨憺たるたるものであったが、しかしながら、カンブレーで会った歌手ポーリーヌにサンドは傾いていた。

ショパンの演奏会にポーリーヌにも出演してほしいとサンドはショパンに頼まれて出演依頼をしていたのだった。この頃、ポーリーヌはロンドンでロッシーニの歌劇《オテロ》でデズデモナ役によりオペラ界デビューを果たしたところであった。そのポーリーヌがいるロンドンへサンドは手紙を書いて出演を依頼していたのだが、この時はポーリーヌとショパンの共演は実現しなかった。

しかしながら、サロンの集まり以外の場所で演奏会を開くことを嫌っていたショパンが、友人や周りの勢いに押されて、この時、プレイエルでの演奏会に出演することを承諾したのだった。

ショパンの久しぶりの演奏会のことを、サンドはショパンを「chip,chip シィップ、シィップ」と親しみを込めて呼び喜んだ。

ポーリーヌはサンドの助言により、この年の1840年、作家でパリ・イタリア劇場の監督ルイ・ヴィアルドと結婚したのだった。

(2019.4.22.23ブログ記事掲載)


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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