F.CHOPIN 、ノアンからフォンタナへの注文は?

ノアン1841年6月、ショパンとサンドは前の年の夏のは、サンドの負債でノアンへ行けなかった。グランドコンサートで収入を得た二人はサンドのふたりの子どもと共に4人でパリからノアンへ避暑に訪れていた。
ノアンに着いたショパンは早速、パリにいるフォンタナへあれこれと指示を送った。
フォンタナに100フランを送ったショパンは、いろいろと細かくフォンタナに注文をした。
「君に最初に頼みたいことはシャルヴァという風刺画雑誌に払うお金のことです。
それから、家賃、ランプのこと、そして、この郵便代金を門番に支払ってください。
そして、6つの花束の支払いがまだなので花屋に支払ってください。
フォーブールサントレーノでいくつかの香り付き石鹸とスエードの手袋の2組を食器棚にある古い手袋を参考にして、サイズを注文してください。パチョリの香水「ブーケ・ド・シャンティ」をパレロワイヤルで買ってきてください。劇場側のアーケード、ほぼ中央に飾り窓がふたつある大きな店があります。
様々な小物のすべてが見事でエレガントで高価なものが売っています。
金持ちは自分の頭を掻くための小さな象牙の手袋を持っていて、君も視たことがあるはずです。
黒い持ち手の先端に白い指が着いているのだ。
わからなければ店員に聞いてください。
15、20、30フラン以下程度のものです。
それから、
プレイエルに私のプレリュードのコピーを渡してもらってください。
シュレジンガーから私の練習曲全曲を入手してください。
ダンタンで売っている僕の胸像をサン=ラサール駅近くに住んでいるアルカンを訪ねて、どこに売っているか彼に聞いてください。
彼が鋳造することになっているブロンズ像のこともはなしておいてください。…」
ショパンはいつものことながら、フォンタナへの頼み事が多いのであった…。

シャルル・ヴァランタン・アルカン

(1813年11月30日パリ - 1888年3月29日パリ)

フランスのロマン派の作曲家・ピアニスト

本名シャルル・ヴァランタン・モランジュ 

パリのブラン・マントー通りでユダヤ系の家庭に生まれた。

父はアルカン・モランジュ(1780年 – 1855年)、母はジュリー・モランジュ。

彼は6人姉弟の2番目で、姉と4人の弟がいた。音楽家だった父の名から、家族の全員が音楽家としてアルカンを名乗った。

パリのユダヤ人居住区のマレ地区の自宅で彼は音楽を教えていた。マルモンテル、ラヴィーナらが通っていた。

1829年に室内楽のトリオを結成したが、その時のチェロ奏者はショパンの友だったオーギュスト・フランコムであった。ショパンがアルカンにこのポーランドの青年を紹介した可能性があると言われているが事実は不明。

上流階級の集まりで演奏会で、リスト、ジョルジュ・サンド、ヴィクトル・ユーゴーらと友好関係を築いた。

彼は自ら主催した演奏会で賛助出演したショパンとしばしば共演し、リスト、タールベルク、カルクブレンナーらのライバルのヴィルトゥオーゾと称されるようになった。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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