1841年の12月ショパンはルイ・フィリップ王に宮廷に招かれ演奏する栄誉を与えられたが、フィリップ王の計らいの報奨金を受け取り事を拒否したことで、ショパンは益々、ポーランドへ帰ることが遠ざかってしまった。
ショパンが宮廷に招かれて演奏できたのは、ポーランドのマゾフシェ県サンニキ村を所有していた貴族のブルシャック家と父ニコラスが親交があったからだった。
このプルシック家の先祖の話は、ナポレオン戦争中の1807年フランスの皇帝ナポレオンによってポーランドのワルシャワ公国が建国された時に遡る。ナポレオン戦争後のワルシャワ公国は、フランス帝国から来たフランス人貴族による貴族共和制の復活であり、1808年にプルシック家はフランスから来てサンニキ村を買収しポーランド貴族を名乗るようになったのだ。当然のことながら、プルシック家はフランス寄りのポーランド貴族である。
そのため、ショパンがフィリップ王に逆らったことは、ポーランドに帰れないことに繋がった。その制裁が、タールベルクやリストとサンドがワルシャワに送り込まれることになってしまったのだ。それで、父ニコラスは「息子が帰っては来れず、どういうことなんだ」と驚いていたのだ。
ショパンは1837年の時には、パリの全権大使にも逆らったことがあった。それは、ロシア皇帝の宮廷ピアニストの称号を与えられることを拒絶した出来事だ。そのため、ショパンは革命家としてのブラックリストから外されずポーランドへショパンは帰れなかった。
その後から、サンドの監視が強まり、旅券問題も片付かず、ショパンの行先はロンドンであり、そして、マヨルカ島のパルマの修道院の独房だったのだ。
つまり、ショパンはパリに来てから、国に逆らったのがこれで2回目なのである。1837年のときに、ショパンはロシア皇帝の宮廷ピアニストの称号を断った理由に「私は1830年のポーランド蜂起に参加しなかったが、心はポーランド蜂起に参戦した人たちと共にあったため、称号は受け取ることはできません。」ショパンはこの時、そう述べたのだ。その後、マヨルカ島で地獄を味わったショパンだったが、それでも、その気持ちは変わらず、1841年のフィリップ王の前でも自分の意思を通したショパンだったのだ。
...そして、時は、1842年のパリだ。ショパンはパリではあらゆる意味で人々から一目置かれる存在となっていた。
「.. アポ二イ伯爵(ハンガリーの大臣)に会えるのは面白いですな…
ピアノに張り付く奴(少年カール)の周りには不謹慎な目をした偉大な人々、公爵、王子が集まって、この天才が偉い人々に絶対的な沈黙を課す様子を見るのが見物ですぞ…」
少年の名前は、カール・フィルチ、この時12歳。父親で牧師と称するヨーゼフ・フェルチ(この時60歳)は自分の息子のことを両親らしき人物にそうつぶやいた。(ヨーゼフ・フィルチの両親に関しては不明、妻に関しても不明)
少年カールに関しても、不可解なことが多々あるのだ。この怪しげな、ヨーゼフのつぶやく手紙は、この頃、ウィーンで知られるようになったユダヤ系ロシア人のアントン・ルービンシュタインの事を話した。アントン・ルービンシュタイン、彼もまたこの時12歳だった。
自分の息子?カールを「奴」と呼ぶヨーゼフは、ショパンが
「アントン・ルービンシュタインよりカールのほうが優れている」と言ったのだと両親(?)に自慢したのだ。
しかし、ショパンが本当に言った言葉は残されていない。ショパンがこの少年を気に入っていたというショパンの言葉はないのである。
ショパンの性格からすると、今まで、どんな人のこともよく観察し、どんな人で自分がどう思っているかをショパンは必ず誰かに話して来たのだ。しかし、カールのことはヨーゼフの一方的な話しかないのである。そしてヨーゼフが言うには「ジョルジュ・サンドはカールに強い関心を示している」と、意味ありげな発言をしているのだ。
サンド(37歳)のことをヨーゼフ自身(60歳)が気に入り、「今なお魅力的なご婦人」と語っているのだ。この関係性も類は類ということなのであろう。この時12歳の少年カールは、いったいどこから連れて来られたのか、サンドが修道院へスカウトに行ったのか、それともヨーゼフがサンドのところへ連れてきたのか。
サンドは使用人の少年もどこからかスカウトして来た経緯がある。
19世紀のパリでは捨て子が多かった。修道院では捨て子養育院を併設していたのだ。
サンドの娘ソランジュは捨て子だったという説がある。
少年カールは、本当にショパンのレッスンを受けていたのか、ヨーゼフが言うには、サンドの宅(部屋)でショパンの即興演奏を聴いたとか、カールがレッスンを受けたなどど話しているが、ショパンはサンドとは別の建物に住んでいたのだ。レッスンは勿論自分の住む建物の部屋で貴族のご夫人を教えていたのだ。
ショパンはいつも「自分のことは妙な噂や作り話ばかりだ」と嘆いていた。
ヨーゼフが言っていることはどこまでが本当かはわからないのだ、カール少年はよく弾けた子供だったのかもしれない、しかし、この少年カールは、3年後の15歳でこの世を去ったのだ。
アントン・グリゴリエヴィチ・ルービンシュタイン(1829年11月28日 - 1894年11月20日)
ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者
弟のニコライも著名なピアニストである。ポーランド出身でアメリカで活躍した。(アルトゥール・ルービンシュタインとは無関係)
ロシア領ポドリスク地方ヴィフヴァチネツにユダヤ系ロシア人の家庭に生まれる。
父は鉛筆製造業者で、母はポーランド出身。
2歳の時に父方の祖父の要望により一家でロシア正教に改宗。
アレクサンドル・ヴィルアンに学んだ。ヴィルアンとパリへ渡る。サル・エラールで演奏会でフレデリック・ショパン、フランツ・リストと出会う。1844年にはベルリンでフェリックス・メンデルスゾーンとジャコモ・マイアベーアの知遇を得る。マイアベーアの勧めて弟ニコライと共にジークフリート・デーンに作曲と理論を学んだ。ロシアやアメリカで精力的に演奏会活動をした。ロシア・ピアノ流派の祖と呼ばれている。1862年にロシア最初の専門的な音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院を創設した。1859年にはロシア音楽協会を創設。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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