1844年夏、最愛の父ニコラスが亡くなったショパンは、パリのサン・ラザール9番地のドルレアン広場のアパルトマンで姉のルドヴィカと10年ぶりの再会を待ち望んでいた。
姉夫妻は、7月10日か、15日、または20日には来る予定であることを、ショパンは弟子のロゼールに伝えた。
ショパンとサンドは、ノアンとパリを行ったり来たりする生活スタイルは、この数年前から変わらなかった。そのため、パリにいない間にルドヴィカ夫妻が来た場合は、弟子のロゼールにその面倒を頼むしかなかった。
人と言うものはこんなにも状況で変わらざる得ないことがあるのだ。ショパンもまた、そうであった。あれほどまで「売女め」とロゼール譲のことをののしっていたことがあるにも関わらず、秘書フォンタナがアメリカへ行って以来、作曲の校訂や生活の雑用は、いつの間にかロゼールにショパンは頼むようになっていた。ロゼールもまた、ショパンの弟子としてショパンの頼みごとには献身的であった。
姉ルドヴィカ夫妻は、まずパリに1週間程滞在してから、ノアンへ行き、再びパリへ戻りワルシャワへ帰る予定なのである。
パリにいない間の連絡をどうしたらいいか困ったショパンは、一足先にノアンへ行っていることを書いた文章を、ロゼールに姉夫妻がパリに来たら渡すように言付けた。そして、ワルシャワで妹イザベラ夫妻と同居している母ユスティナへ宛てた便りもロゼールからルドヴィカに言付けるように頼んだショパンだった。
こうして、当時は些細な連絡も人と人とが時間をかけて関わりながら人は生きていた、そして、これはショパンにとっても決して些細なことではなかった。
パリでは、1789年のフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃事件の以来、翌1790年から、7月14日にフランス共和国の成立を祝う日 (Fête nationale) パリ祭が行われていた。
その日は、パリでは1日中、華やかな花火が打ち上げられるのである。それを、チェイルリ宮殿の窓の下にある小さい桟敷席からルドヴィカ夫妻に見せてあげたいとショパンは思いついた。ショパンが嫌いだといつも言ってきたルイ・フィリップ王であるが、父ニコラスも亡くなってしまったため、姉ルドヴィカ夫妻にチェイルリ宮殿へ行かせ、ルイ・フィリップ王のご機嫌を取ってもらえないかと思うショパンであった。グシマーワがルイ・フィリップ王の使用人と知り合いであった。それで、ショパンはグシマーワに早速、チェイルリ宮殿の窓の下の桟敷席を姉夫妻のために取ってもらうように頼んだ。
この桟敷席に支払うお金をどうしたのかは不明なのだが、グシマーワはこの頃、借金に苦しんでいたため、グシマーワはパリのホテル住まいを辞めて、アパルトマンへ恐らく引っ越していたが、2階から落っこちた事件があった。
ショパンとサンドはそのことを、「かわいそうに、グシマーワはまだ愛する人がいるのだよ。グシマーワの経済状況がよくなることを祈るよ」と、ふたりで話していた。
グシマーワの経済状況はサンドとショパンと付き合う限りは良くはならないのだ…。
そして、お金のないショパンは、グシマーワに難しい頼みごとをした後で、
「ド・キュスティヌ侯爵家の方たちに、宜しく伝えてください。姉がパリへ行ったら、ド・キュスティヌ侯爵に会うよう計らってください。」と、頼みごとのハードルを上げたショパンは、お金の支援はド・キュスティヌ侯爵が取り計らってくれますよという意味を、それとなく付け加えたのであった。
ルドヴィカ夫妻は、パリで予定通り1週間、サンドのアパルトマンで過ごした。ロゼール譲の案内で、パリの観光を楽しんだ姉夫妻は、サンドの本拠地のノアンへいよいよ向かい、今度こそはショパンと10年ぶりの再会を果たすのであった。
1790年7月14日フランス革命1周年記念祭である連盟祭が行われた。
シャン・ド・マルス(パリ7区)10万人の祭り
「Fête nationale française」(フェト・ナシォナル・フランセーズ、フランス国民祭)
パリ祭(パリさい)は、フランスで7月14日に設けられている、フランス共和国の成立を祝う日 (Fête nationale) である。
1789年同日に発生したフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、この事件の一周年を記念して翌1790年におこなわれた全国連盟祭 が起源となっている。
チェルリー宮殿(1810年頃)
パリ1区「モントルグイユ通り」1878年6月30日の祭日(公式決定により共和国を讃える祝祭が制定された。)クロード・モネ画
現在も、フランス国民祭=フェト・ナシォナル・フランセーズ「Fête nationale française」
7月14日には、フランス各地で一日中花火が打ちあげられる。また慣例として消防士はダンス・チーム bals du 14 juillet を組んで市民に披露する。
午前中にはパリで軍事パレードが開催され、フランス大統領の出席のもとシャンゼリゼ通りからコンコルド広場までを行進する。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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