F.CHOPIN、母ユスティナと姉ルドヴィカへの便りはロゼールを経由して
ショパンはパリを頻繁に行ったり来たりすることが前年に比べて増えていた。
9月の下旬はパリでシュレジンガーやレオに会いお金の工面し、フランショームに借金を返したり(推測)フランショームと構想中のチェロソナタを試したり、サンドの使いの怪しい小包をサンドの知り合いに届けたり、パリの亡命者でポーランドの王女だったショパンのワルシャワ少年時代のパトロンのアナ・サピェザンカに会ったりした。
10月に入ると、またノアンへ戻り、ショパンは作品を書くことに専念した。そして、11月の始めに、またパリへ向かったショパンだった。
馬車は駅馬車だったかは不明であるが、これだけ、落ち着きがない生活はショパンの身体に負担になったことは間違いない。
パリで会うロゼールにノアンを離れる前にショパンは頼みごとを一筆書いた。
「長い間私から連絡をしなかった理由は、
あなたにすぐにお会いできると私は思っていたからです。
私たちの計画が変わったので、私がパリ行く前に、私の母への手紙をあなたがパリからポーランドへ出してくださるか、お願いする次第です。
私はあなたの体調が完全に回復していることを願っています。
ここ数日体調を崩しているソランジュとは違いますように。
ソランジュは治ったら、すぐに手紙を書くでしょう。
9番地の管理人に私は、一両日のうちにパリはいることをお伝えくださいますようお願いします。」
サンドの娘ソランジュは16歳になったところであった。体調が優れないというのだ。サンドは娘に愛情を注がなかったため、ソランジュはサンドを否定的に見ていた。そのためサンドは娘とはとは折り合いが悪いのだ。ショパンはサンドの事よりも年頃のソランジュのことが心配であった。
ショパンがパリへ行く前にロゼールへの頼み事をするのは、いつものことであった。
フォンタナがロゼールに代わっただけである。ショパンはパリに着いたときに部屋が暖まっているか、換気はしてあるか、など、すぐに気持ちよく部屋を使いたいのである。
要するにホテル住まいと変わらない感覚である。
「そして、
もし、カーテンが擦り切れていたら、居間の綿織物のカーテンを一組、ペリチャーさんに注文するように管理人に言いつけてください。事前にお礼をお申し上げます。
近いうちにお会いしましょう。
姉があなたへ愛情の挨拶を送ります。あなたは少し私の為にバッハを練習してください。」
ショパンは部屋がきれいであることにこだわりがあった。そして、ロゼールが自分の作曲の校訂の仕事にフォンタナほどは使い物にならないので、私の仕事を手伝えるようにという意味を含めて伝えたショパンだった。
ロゼールにショパンが頼んだ母への手紙は現存していないが、同時に姉ルドヴィカへショパンは書いていた。
「私の最愛のルドヴィカへ
さて、家族みんなで一緒に会わなくてはいけません。 私はあなたのウィーンとクラクフから両方の手紙を受け取りました。(現存せず)
ミュラー嬢(ショパンの愛弟子)が私に便りをくれました.。(現存せず)
彼女はあなたにウィーンで会えてとても幸せだったと書いてありました。 彼女は魅力的です。 そうです、
スザスゼック夫人はミュラー嬢がパリに来たら、僕のためにしばらく待つことになります。 僕はノアンに一週間か二週間滞在するつもりです。
葉はすべて落ちたわけではありませんが、黄色です。 」
ルドヴィカがノアンに来た時はまだ夏であった。もう、秋になった紅葉の季節なのだ。
ショパンはノアンの部屋の窓から庭を眺めながらルドヴィカにそう書いた。
「今週の天気は良かった。 この家の主人(サンド)、
あなたは覚えていますか、そこで踊っていた前の中庭のことです。サンド夫人は農園でさまざまな植物を配置をして、それで収益を得ているのです。…」
ルドヴィカに何か言ってほしいのであろうか、詳しく説明するフレデリックであった。
サンドは、「オランジェリー」と名付けた温室を作って植物を栽培していた。
「そして、クラクフからの手紙をありがとう。スキピオのことがわかったうれしかった」
たったこれだけのショパンの言葉であるが、姉ルドヴィカがウィーンでミラー嬢の案内で
モーツァルトのオペラ「シピオーネ(スキピオ)の夢」につて調べて、その物語について書いて来てくれたのではなかろうか。(手紙は現存しないため、ショパンの言葉から推測)
フレデリックは自分の作曲のことは姉ルドヴィカが一番理解してくれていると思えてうれしかった。
そして、フレデリックが気になっていたのは、ルドヴィカの夫ヨゼフに宛てた手紙で事ずけてあった、スカルベック夫人宛ての手紙がスカルベック夫人にヨゼフの手によって渡してもらえたかである。
それを、姉ルドヴィカに確認するフレデリックだった。
「クラクフに宛てたはずの、スカルベック夫人宛ての僕の手紙をフゼフさんは受け取ってスカルベック夫人に手渡してくれましたか?」
フレデリックはヨゼフはロシア寄りであるため、信用をしていないが、厄介なことに姉の夫であるのだ。それで、自分が頼んだことがどうなるか裏を取って試したフレデリックだった。
そして、フレデリックのワルシャワ時代のパトロンで親友でももあるティトゥスのことがフレデリックは気になった。ウィーンへ一緒に行き、11月蜂起でポーランドに帰り戦いに参加したティトゥス・ヴォイチェホフスキの奥さんの手が具合が悪いことをルドヴィカから聞いた。フレデリックは、昔の友人がどうしているかを知らせてほしいとルドヴィカに頼みました。
それから、ロゼールにも書いたショパンだが、ソランジュが具合が悪くて困っていることをルドヴィカにも伝えたフレデリックだった。「ソランジュは今日、かなり体調が悪いため、僕の部屋で寝ています。僕が書いている部屋であなたによろしくと言っています。」
サンドが自分の娘を看病しないため、フレデリックが代わりに16歳のソランジュを看病していた。
そして、サンドの息子は来月、2、3週間もの間、サンドの別れた夫のカジミール・デュドヴァンの処へ滞在するというのだ。伯父さんのヒポリとも会う予定だというのだ。
モーリスは礼儀知らずであったため、ルドヴィカ夫妻からのお土産のお礼の言葉も言わなかった。サンドは子供に無関心で家族は考えていることも行動もバラバラであった。
家族の愛情を知っているショパンには、サンドもサンドの子供も不憫に見えた。
ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
( 1808年12月 31 日ウクライナ、現在のリヴィウ - 1879年3月 23 日ポーランド ルブリン県ポトゥジン)
政治活動家、農学者、ポーランドの芸術家のパトロン。ポーランド - フランスの作曲家、フレデリックショパンの最初の親友。
ラ・チ・ダレム変奏曲変ロ長調 作品2はフレデリック・ショパンが1827年、17歳のときの作品。ショパンの初めての管弦楽付き作品である。ティトゥス・ヴォイチェホフスキに献呈された。
ティトゥスはショパンの父ニコラスショパンの寄宿学校、そしてワルシャワ高校、を通して友人であった。そしてショパン一家と親交があった。その後、ワルシャワ大学で法律を学びました。ティトゥスはチェロとヴァイオリンを演奏しました。
1830年に、ショパンは彼の代々伝わるポトゥジンのヴォイチェホフスキ家を訪問した。
ショパンの婚約者コンスタンツィア・ゴドフスカのとの間を取り持った腹心の友であった。彼はCopuntess Aloysia Poletyloと結婚し、2人の息子がいました。2番目の息子にフレデリックと名付けました。
ティトゥスは1830年にオーストリアへのショパンの旅に同行しました、しかし、彼が1830年11月蜂起を知ると、彼は戦いに参加するためにワルシャワに戻りました。彼は軍事勲章を授与されました。
戦後は、ティトゥスは音楽を放棄し、農業に専念しました。彼はポーランドの芸術文化の先駆者と言われました。
ポーランドで輪作の導入を開拓し、そして1847年に国で最初の砂糖工場の1つを設立しましたが1861 - 62年に倒産しました。
彼は、1863年1月の暴動に参加したホワイト党の活発なメンバーでした。
ショパンとティトゥスの思い出の品は、1914年に火災で焼失し、ポトゥジンにあるティトゥスの家族の邸宅は第二次世界大戦破壊されました。
1873年、彼はフレデリック・ショパンの胸像をワルシャワ音楽協会に寄付しました。
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