F.CHOPIN、焦るメンデルスゾーンとデュラン夫人の出現

フレデリック・ショパンはフェリックス・メンデルスゾーンから、許し難い申し出を受けた。メンデルスゾーンは、1835年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、1841年ベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任し、1843年ライプツィヒ音楽院を開校し、院長となり、ロベルト・シューマンを招聘したのだ、順風満帆のはずのメンデルゾーンだったが、実は姉が結婚して夫の仕事を手伝うようになりフェリックスの作曲を代わりに書いてくれる暇がなくなってきていた。

フェリックスはシューマンを教授の職に招いたものの、自分の新作が書けず焦っていたのだ。フランショームからうまい話を聞きつけたメンデルスゾーンは恥も外聞もないのか、

またもショパンの人の良さに付け込んで来たのであった。

メンデルスゾーンがショパンに言ってきたことは、

「あなたより私はお金持ちである、それゆえ、あなたより有効なことが私にはある。だから、あなたが今、何を作曲しているか私は情報がほしいし、あなたのことをフランショームから聞いているから私はよく知っている。

私がとても興味を持っているこは、私はいつも、あなたが今、何を作曲しているを私は充分知ることを望んでいる。

あなたは、自分の作品を自分自身で書いている。(私はそうでないと言っている)

それが私があなたが作曲した作品が欲しいと言う理由です。」要約するとこんな具合であった。

ショパンとしては、性格上居ても立っても居られなくなったのではなかろうか。

メンデルスゾーンから、とんでもない手紙をパリで受け取ったショパンは、その後、

一旦はノアンに戻った。おそらくは、証拠になる何かか原稿を取りに帰ったのであろう。

そして、ロゼールにとても慌てているかのような内容の書簡をパリに送っている。

「あなたが私の到着を知らせてほしいとのことですので、

私はあなたに急いでお知らせします。

私は17日の日曜日にパリであなたにお会いして挨拶する喜びを持つでしょう。

12.30に到着と思います。 

私は、サントノーレ街(パリの1区)にあるラフッツ社の駅馬車でブールジュを経由してパリへ行きます。 私は何時に着くかは正確にはわかりません。恐らくは、いつも昼間です。

私の部屋の暖炉に火を灯しておいてもらえますか。お願いします。

日曜日に私の好意で特別に、デュラン夫人に来て欲しいということを、一時過ぎに私に会いに来るように伝えてください。

さよなら、すぐに会いましょう、さようなら、ショパン」

デュラン夫人は、当時ヴェルデュラン家の出身として有名であった。ヴェルデュラン家は、革命後、貴族の出身ではなく一般庶民が金を儲けてブルジョアジーが大頭してきた頃に、それまで貴族が開催していた音楽家のサロンを見様見真似で音楽家のサロンを開くようになった人であった。時代の波がショパンにも押し寄せて来ていた、ショパンは付き合う相手が選べなくなって来ていたことが伺えるのであった。

そして、ロゼールにデュラン夫人を待たせておくように指示したショパンが向かった先は、

まずは、メンデルゾーンが狂ったことを言ってきていることを辞めさせるために、ベルリンまでショパンは急いで行った。(推測)なぜなら、ショパンは2週間後にしか、パリに現れなかったのである。

1830年頃のサントノーレ通り(パリ8区)

サントノーレ通り( rue Saint-Honoré)フランス・パリの市内中心部、セーヌ川右岸(北岸)1区にある通り。一部8区。中世の時代からの歴史的な通りである。


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