F.CHOPIN、ショパンのピアノと衣装と鏡は何処へ…サンドのしわざ
ショパンがサンドに長い書簡を送ることは今までかつてなかった。
ショパンはパリで、サンドはノアンで別々に行動していた2週間の間、そして、その前にソランジュの看病をしていた時に、ソランジュから何かを明かされたのであろう。ショパンは2週間の間にサンドのことを何か調べて知ったことがあったのかもしれない。
パリでは、この2、3日の間、大雪に見舞われたため、外出できず、ショパンはアパルトマンの家の中と、同じ敷地の広場に住むマルリアニ夫人のアパルトマンで食事をしたりして過ごしていた。
天気はなかなか回復しなかっが悪天候の中でも、ノアンからサンドの手紙(現存せず)がパリに届けられていた。
ショパンは数日前にサンドへ長い便りを書いたばかりであったが、再度、返事をノアンへ送った。
「あなたは、元気でいてください。すべての困難を避けることを心に留めておいてください。私は、ちょうどあなたの手紙を受け取りました。あなたの最も素晴らしい手紙は、私はあなたが非常に怒っていて、心配していることを想像しています。」
ショパンが2週間もどこで過ごしていたかがわからないサンドは怒っていた。そして、
大雪でパリの友人たちがどうしているかわからないサンドはイライラしていた。
ショパンはサンドの性格を読んでサンドの気持ちを静めるかのように続けて書いた。
「しかし、あなたは友人への心配をすることを辛抱してください。
あなたが旅行していると聞いたら、私たちは皆、本当にあなたを心配し苦しむことになるからです。
このような天気であなたの健康は完璧でないのですから。
なるべく遅い日に駅馬車の席を取ってください。
その頃には天気も回復してそれほど寒くないかもしれません。」
サンドを労わるやさしいショパンだが、サンドには早くパリに来てほしくはないのだ。
そして、ショパンは天候の話をした。
「皆が冬はまだ来ないと言っていましたが、突然あまりにも早く来ています。 皆というのはデュランさん、そして、今朝会ったフランショームのことです。昨日は彼の家で食事をしました。
僕は暖炉のそばで重いフロックコートを着たままでいました。
僕は大きな体付きの青年の隣に座った。
青年は膝小僧を出していて、新鮮で暖かいバラ色の頬で微笑んでいました。
僕は、寒そうな黄色い頬にしわが寄っている。そして、僕は、ズボンの下にフランネル生地の下着を3枚も重着をして着ているのだ。
僕は彼にあなたから、ちょっとしたチョコレートをあげることを約束しました。
あなたの名前と「チョコレート」は今では彼の同義語です。
彼はかつての記憶では、あなたの髪はとても真っ黒だったと言うが、今はそれがチョコレート色になったと思います -。
彼は本当によく笑っています。だから僕は特に彼が好きです。」
この、バラ色の頬をした青年とはいったい誰なのか・・・。サンドに気に入られようと近寄ってきたのか、フランショームのチェロの弟子であろうか・・・。
「僕は10時半に寝た。しかし、僕はなかなか寝付けませんでした。
僕の列車の旅の後の夜のようでした。 」
ショパンは、つい口を滑らしたのか、やはり黙っていたいけれど言いたいのだ。
ショパンは駅馬車の旅でなく、ショパンは謎の2週間の間に蒸気機関車にドイツ辺りで乗ってみたのかもしれないのだった。。。しかし、サンドが、ノアンでつまらない毎日を過ごしているのにワクワクしたなどとはショパンは言えないのである。
「僕は、あなたのガーデニングの仕事ができないことを午前1時まで起きていて、そうしたらいいかを考えて悩んでいます。
外で木靴を履いて何かすることがあればよかったのにと思います。
というのは、寒くて滑りやすい環境にもかかわらず、木靴ならば大丈夫だからです。
あなたは好きなことをすべきです。
空は雲がないですが、少し暗くなると雪が降ります。僕はグシマーワに手紙を書いたが僕たちはまだ会っていません。
僕は彼に会いに行ったが彼はいなかった。
いつものように、僕はこの手紙をブルス広場に行って出します。
僕に夕食を期待しているロゼール嬢に会う前に、
二日間、会っていないマルレニア夫人を僕は訪ねようと思います。」
サンドを安心させるために、会っているのはサンドと共通の友人ですと報告するショパン。
「僕は訪問するにあたり見栄えのする服がないので、人前に出れず時間を無駄にしています。僕のレッスンの仕事はまだ始まっていません。
1つ目はピアノがアパルトマンに到着したばかりです。2つ目は、僕がパリに帰って来ていることをまだ誰も知らないのです。
見込みのある生徒からの問い合わせがあったのは今日だけです。
すべてが徐々に以前の仕事のように戻ってくると思うので、僕は心配していません。」
なんと、ショパンのパリのアパルトマンのピアノがショパンが2週間留守をしている間に無くなっていたのだ。ショパンがパリに帰り部屋の扉を開けるとピアノが消えていたのだ。しかも、ショパンのクローゼットに置いてあるショパンの自慢の衣装もすべて消えていたのだ。
もしかしたら、ショパンがサンドに無断で2週間も居なかったことをロゼールがサンドに話してしまい、サンドの怒りは頂点に達し、ショパンのピアノと服は捨てられた?のかもしれないのだ。いや、捨てはしないかもしれないが、まさかではあるがショパンにサンドからのそのような制裁があったのかもしれないのだ。
しかし、ショパンは平静を保ちながらも、続けてサンドに語りかけた。
「僕が心配しているのは、あなたが時々、辛抱することができなくなることです。
あなたの手紙はシャトールーからパリへ来ます。その馬車の御者の郵便配達人に煩わしおことをくどくど言わないでください。
あなたは郵便配達人にあまりとやかく関わらないで謙虚にお願いします。」
おそらく、大雪で郵便配達が困難だというのに、サンドは御者に無理を言って速達にするよう頼んだのであろう、そうなると、ショパンが受け取るときに、郵便料金を更に払わされることにでもなったのであろう。
「明日また、書きます。(現存しない)今度は、あなたが驚くようなことを書いてあなたに転送します。
あなたは朝、ガウン姿であなたの最愛の人(ソランジュとモーリス)と一緒にいる、僕の代わりに子供たちにキスを贈ってください。
そして、あなた自身のために私のこうした献身的な意見を受け入れてください。
私のスペルミスに関しては、ボワステの辞書を引くのが大変なのです。」
ショパンはフランス語のボワテスの辞書を片手にサンドに書いていたのだ。
そして、
「あなたの昔のミイラ ショパンより」と、綴ったショパン。3日前は「信じられないほど老いたる」だったが、3日でショパンは「ミイラ」になった。ショパンはマルㇾニア夫人やフランショームの家の食事が合わなかったのかもしれない…。
そして、ショパンはサンドに追伸として書いた。「使用人のヤンは、僕の居間の掃除に忙しいです。 ヤンは鏡をかける作業をしてくれているので時間がかかります。」
ショパンの部屋は、サンドの命令で、ショパンが不在の間に部屋の一切合切をどこかへ売り飛ばしに持って行かれてしまったのだ。
ショパンもサンドと別れるつもりでサンドの部屋にある家具(ショパンが買った)をサンドの居ない間にグシマーワや管理人に(前のアパルトマンにいた頃)全部あげてしまったことがあった。サンドはやはり根に持っていたのか、その報復だったのかもしれない。
1844年も終わろうとしていた。
ショパンはシュレジンガーへ出版のことで一筆書いて送った。
「親愛なる友人へ
私の≪ソナタ作品58≫と≪変奏曲57≫(始めは変奏曲という題名だったが後で≪子守歌≫に変更された)の準備ができています。
私はこれら二つの作品について1,200フランを請求致します。
私はあなたに会うために連絡をするべきでした、しかし、私の要件はこれだけでございます。あなたの親友ショパン
私はあなたの妻を尊敬しています。」
シュレジンガーに出版の交渉をするために心にもないことを書かねばならなかったショパンだった。
ピエール=クロード=ヴィクター・ボワステ(1765年パリ - 1824年4月24日イブリシュールセーヌ)言語学者や辞書編集、詩人、弁護士、その後、印刷業者および出版社。
1800年に彼の辞書Dictionnaire universel de la langfrançoiseを出版。これはフランス語で最大の辞書の成功の1つで、1866年までに15版出版しました。
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