いつもご訪問ありがとうございます。
酷暑が続いておりますが、皆様お元気でしょうか。
「パリと夏のノアンとショパン」は、1845年の夏のノアンでサンドとの生活に不協和音の陰りが見られるようになってきたところです。フレデリックの故郷の家族への想いは月日が経てば経つほど募り、
書簡を書き続ける毎日でした…
お話は途中ですが、
ここで、お休みを頂きます。
このお話の再開は9月2日からの予定です。
また、ブログでお会いしましょう。
(^_^)v
- オノレ=ヴィクトラン・ドーミエ(1808年2月26日 - 1879年2月10日)19世紀フランスの画家風刺版画家として知られた。油彩画家としてもアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックや、フィンセント・ファン・ゴッホなどの後世の画家に影響を与えた。1808年、マルセイユにガラス職人の子として生まれた。職人であった父・ジャン=バティストは、文学、詩人として身を立てるため、1814年頃パリへ行き、その後、1816年ドーミエが8歳の時母と共にパリへ赴く。一家の暮らしは貧しく、ドーミエは少年時代から弁護士の使い走りや書店の店員として働いた。14歳の時にはアレクサンドル・ルノワールという画家に師事し、ティツィアーノやルーベンスの技法を学んだ。アカデミー・シュイスにも通う。また、1823年頃、ベリアールという職人から、当時の最新技術である石版画(リトグラフ)の技法を学んだ。新聞・雑誌などの、挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊したシャルル・フィリポンに才能を見出だされる。フランスの7月革命(1830年)でフランス国民の王となったルイ・フィリップの政治を風刺した版画で話題になった。作品としては、版画『トランスノナン街、1834年4月15日』が知られている。ドーミエは、生涯に4,000点近い版画を残したほか数十点の彫刻、三百数十点の油絵を残した。ドーミエの油絵は生前にはほとんど公開されなかった。しかし、当時のパリ市民の日常生活を最新の構図と筆使いで表現し、印象派や表現主義の絵画を先駆けと評される。1879年、パリ郊外ヴァルモンドワで亡くなる。
- F.CHOPIN、5日間かけた書簡第2弾に隠されたメッセージとは
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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