~音楽家の肖像~ドメニコ・チマローザ

ドメニコ・チマローザ

(1749年12月17日– 1801年1月11日)

ナポリ派のイタリアの作曲家.

彼は80以上のオペラを書きました。その中で最も有名なのは≪秘密の結婚≫(1792)です。

彼のオペラのほとんどは喜劇の作品です。彼はまた、器楽作品と教会音楽を書きました。

チマローザは主にナポリに拠点を置いていましたが、ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェなどのオペラハウスで作曲し、イタリアの他のさまざまな場所で彼は過ごしました。

彼は1787年から1791年にロシアのキャサリン大帝の宮廷作曲家および指揮者として従事しまていました。晩年、ナポリに戻って、彼はそこで君主制を転覆する闘争で負けた側を支持し、投獄され、追放された。彼は51歳でヴェネツィアで亡くなりました。

チマローザの生涯における評判はロッシーニの全盛期まで最高の高さに達し、19世紀に高く評価されていました。ウジェーヌ・ドラクロワは、モーツァルトよりもチマローザの音楽を好んだと言われています。

ドラクロワは≪秘密の結婚≫の作品について、「それ自体が完璧です。この対称性、この表現力と適切な感覚、この華やかさと優しさ、そしてとりわけ比類のない優雅さを持っている音楽家は他にいません」と褒めたたえた。スタンダールは、「チマローザ、モーツァルト、シェークスピアは私の人生の唯一の情熱である」と書いた。

スタンダールにとって、チマローザは「作曲家のモリエール」であり、彼は≪秘密の結婚≫を100回以上聴いたと言うほどチマローザを気に入っていた。

ベルリオーズはイタリアオペラを嫌っていたため、チマローザの崇拝者ではなかった。

「果てしなく悪魔的で≪秘密の結婚≫には、うんざりします。フィガロの結婚と同じように面白いが、音楽的ではありません。」

ロバート・シューマンは、チマローザの「絶対に見事なオーケストレーションに感銘を受けたが、他はほとんど感銘を受けなかった。」エデュアルド・ハンスリックは、チマローザの素晴らしい演出、見事な構成、そして良い趣味を称賛し、「太陽の光–それがチマローザの音楽にふさわしい表現です」と絶賛した。

1771年、22歳で最初のオペラで成功を収める。

1778年、29歳でオペラ劇場からの作曲の依頼が殺到する。

1787年、ロシアの女帝エカテリーナ2世の招きでペテルブルクに行く。1791年、42歳でレオポルト2世の招きを受け、アントニオ・サリエリの後任としてウィーンの宮廷楽長となる。

1792年、43歳の頃に オペラ『秘密の結婚』を作曲。

1793年 ナポリに帰って翌年1794年『女の手管』『ペネローペ』を上演した。

1799年、一時共和制が布かれ、革命政府の要請で新時代の到来を賛える詩に作曲したため王政復古後の反逆者とみなされ、12月9日に逮捕されて、ナポリを永久追放処分となる。

1801年、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場から依頼されたオペラ『アルテミシア』を

未完成のまま52歳でその生涯を閉じる。

ショパンのエピソード:ショパンはベルリン滞在中にオンスローの≪行商人≫の上演を観に行きました。オンスローに関しては「面白かった」とワルシャワの家族に報告し、同じく、ショパンはチマローザの≪秘密の結婚≫を鑑賞しました。その時、管楽器の音がよほど下手だったのかショパンは「黙れ!ひどいラッパめ!」とボックス席から耳を塞ぎならな大声で野次を飛ばしました。



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